「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「知れば知るほど面白い 日本地形の謎」(ワールド・ジオグラフィック・リサーチ)

地理が好き。南米のチリじゃなくて、地理ね。地名の由来とか地形のことなんか特に好きだねー。ということで読んだのがこの本。


2017年12月刊行の『眠れなくなるほど日本の地形がおもしろくなる本』の文庫版とのこと。ここに地元、金沢区の話題も掲載されている。そのエッセンスを紹介しよう。


四谷の「四つの谷」とは?この地名は「四つの谷」があったことに由来するという説と、4軒の茶屋があったため「四ツ屋」(四ツ家)が転じて四谷になったとする説がある、四つの谷で有力なのは、次の4つ。千日谷(新宿区)茗荷谷(文京区)「千駄ヶ谷」(渋谷区)大上谷(渋谷区)だ。一方、新宿区では、四谷四丁目あたりに4軒の茶屋があったことによる、と触れている。どちらもそれなりに説得力があり、由来ははっきりしない。

 

銀ブラという言葉が有名な銀座。橋がない場所に、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋と「◯◯橋」という地名が残っている。これは、多くの川や堀が埋め立てられたことを物語っている。かつて橋があった場所に、その名残として「◯◯橋」という地名が残っているのだ。

 

・荒川が流れているのは足立区で、荒川区を流れているのは隅田川だ。では、なぜ荒川区に荒川が流れていないのか?実は江戸時代に荒川の下流は、俗称として隅田川とも呼ばれていた。1932年、荒川区が誕生し、区内を流れる川は荒川と名づけられた。しかし河川法により、もともとの荒川の流路を流れる部分は正式に隅田川と呼ばれるようになった。この経緯で、荒川区から荒川が消えた

 

大阪を指す「なにわ」という言葉は、いったいどこから来たのだろう?「浪速(なみはや)」という言葉がなまって変化したものだといわれている。神武天皇が大阪に来た際、大阪平野は河内湾という内海の底にあり、現在の上町台地だけが半島のように浮かんでいた。その潮の流れが速い状況を見た神武天皇「波速国(なみはやのくに)」と名づけたとされている。「浪速」はさらになまり、奈良時代には「難波」と呼ばれたという。

 

・かつての梅田は「梅」の字ではなく、「埋田」と表記されていたという。この地は沼地を埋め立てた地域で、けっして人々が集うような町ではなかったのだ。そうした印象を表向きでもよくしようと思ったのか「梅」の字で使われるようになった。

 

・大阪の四天王寺にて、春分秋分の日の午後5時20分から行われる「日想観」という行事。日想観とは、西方に向かい、沈む夕日を観ながら極楽浄土を想う仏教の修行の一つ。平安時代空海四天王寺の夕日を見て修行を始めたことがにっそうの由来とされている。中世以降、浄土信仰の行事の一つとして皇族・貴族、庶民にも広がった。四天王寺はその修行の中心地としてにぎわった。

 

横浜がかつて相模国武蔵国に分かれていた金沢区の朝比奈と大道の境の崖に、高さ4メートルの磨崖(まがい)仏(崖に彫られた仏)がある。鼻が欠けているから「鼻欠地蔵」と呼ばれている。この地蔵がその国境にあった。鼻が欠けたのも、両国の小競り合いに巻き込まれ、とばっちりをくったせいと言われている。

 

 

栄区の元大橋公園には「相武国境」と刻まれた石碑が建っている。「相武」は「相模国」と「武蔵国」の頭文字をとって合体させた語句だ。南側が相模国、北側が武蔵国だった。また、国境に沿って「国境の道」と呼ばれる道も通っていた。

 

 

週末は、磨崖仏まで自転車で行ってみよ。オススメです。(^^)