「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ウルトラマン昇天 M78星雲は沖縄の彼方」(山田輝子)

 

最近、なぜかウルトラマン関連の本を読み続けている。これも還暦でいままでの自分をん振り返る一連の動きなのかなー!♪ 特に気になっているのが、若くして亡くなった円谷プロダクションウルトラシリーズの初期脚本家として有名な金城哲夫さん。その伝記本があるとは知らなかったなー!そのエッセンスを紹介しよう。

 

玉川学園では地方出身の学生、生徒は「塾」と呼ばれる学園内の寄宿舎で生活した。男子140人、女子60人の塾生が、大学生から小学生まで数人ずつ、一つの部屋で寝起きをともにし、家族のように暮らしていた。金城の東京での生活もこの“塾”ではじまった。

 
金城哲夫の父忠榮は獣医だった。沖縄には鉄道がなく、とくに戦前は交通の手段も耕作の動力も馬が頼りだった。その馬を扱う獣医は欠かせない重要な職業だった。哲夫の祖父忠助は獣医の仕事を見よう見真似でおぼえたが、息子忠榮には正式に学校で学ばせたいと、東京の麻布獣医学校麻布大学)に入学させた。忠榮は新婚の妻つる子をともなって二年間東京に暮らし、滞在中の昭和13年7月、長男哲夫を芝の産院でもうけた。
 
・関沢「円谷さんから、シナリオの書き方を教えてやってくれ、と頼まれたんだけれどね。彼はまだ学生だったけど、もう一応のことは知っていたよ。才能はあったね。それはすぐわかった。ほら、歌手でも才能のあるのとないのとは、歌わせてみればわかるだろう。金城の発想、あれは天性のものだったねえ
 
円谷皐は、かねがね、特撮をテレビ映画のシリーズものにできないか、と考えていた。映画部長の西村五州も、どうせやるなら世間をアッといわせるようなのをやろうよ、と皐をけしかけた。
 
「忠さん、こういうの、どう?宇宙人は握手するとき、ポロリと涙を流すんだよ。緑いろの涙を……。そうすると握手したひとは、その涙の玉のなかにスルリと入ってしまうんだ。涙の玉が宇宙船になるんだ……」ウルトラマンが入った球体は、宇宙人の涙のしずくだったのだ。シャボン玉のような薄い膜に包まれ、ウルトラマンは天空に消えていった。その姿は神秘的だった。
 
・わたしは、金城はなぜあのとき円谷プロをやめたのだろう、という長年に疑問を栫井は「うーん、やっぱり、沖縄だったんでしょうねえ。やっぱり沖縄ですよ。それほど、彼にとっては沖縄は大きかったんだなあ……
 
もし、金城さんが生きていたら、どんな作品を残したんだろうね。惜しい才能だったなあ。ウルトラマンファン、必読っ!オススメです。(^^)