最近、なぜかウルトラマン関連の本を読み続けている。これも還暦でいままでの自分をん振り返る一連の動きなのかなー!♪ 特に気になっているのが、若くして亡くなった、円谷プロダクションのウルトラシリーズの初期脚本家として有名な金城哲夫さん。その伝記本があるとは知らなかったなー!そのエッセンスを紹介しよう。
・玉川学園では地方出身の学生、生徒は「塾」と呼ばれる学園内の寄宿舎で生活した。男子140人、
・金城哲夫の父忠榮は獣医だった。沖縄には鉄道がなく、 とくに戦前は交通の手段も耕作の動力も馬が頼りだった。 その馬を扱う獣医は欠かせない重要な職業だった。 哲夫の祖父忠助は獣医の仕事を見よう見真似でおぼえたが、 息子忠榮には正式に学校で学ばせたいと、東京の麻布獣医学校( 現麻布大学)に入学させた。 忠榮は新婚の妻つる子をともなって二年間東京に暮らし、 滞在中の昭和13年7月、長男哲夫を芝の産院でもうけた。
・関沢「円谷さんから、シナリオの書き方を教えてやってくれ、 と頼まれたんだけれどね。彼はまだ学生だったけど、 もう一応のことは知っていたよ。才能はあったね。 それはすぐわかった。ほら、歌手でも才能のあるのとないのとは、 歌わせてみればわかるだろう。金城の発想、 あれは天性のものだったねえ」
・円谷皐は、かねがね、 特撮をテレビ映画のシリーズものにできないか、と考えていた。 映画部長の西村五州も、 どうせやるなら世間をアッといわせるようなのをやろうよ、 と皐をけしかけた。
・「忠さん、こういうの、どう?宇宙人は握手するとき、 ポロリと涙を流すんだよ。緑いろの涙を……。 そうすると握手したひとは、 その涙の玉のなかにスルリと入ってしまうんだ。 涙の玉が宇宙船になるんだ……」ウルトラマンが入った球体は、 宇宙人の涙のしずくだったのだ。 シャボン玉のような薄い膜に包まれ、 ウルトラマンは天空に消えていった。その姿は神秘的だった。
もし、金城さんが生きていたら、どんな作品を残したんだろうね。惜しい才能だったなあ。ウルトラマンファン、必読っ!オススメです。(^^)