一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

「自分だけの一冊 北村薫のアンソロジー教室」(北村薫)

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 毎日本を読み始めて、早や20年。年間300〜400冊読むので、すっかり活字中毒だね。(笑)

 

さてこの本。高校の国語教師の経験もあり、人気作家にしてアンソロジーの名手である著者が教えてくれるのは、ベストセラーに振り回されるのではなく、ゆったりとした気持ちで好みの作品を見つけ、自分だけの本を編む愉しみ。好評を博した特別講義を完全再録」そのエッセンスを紹介しよう。



アンソロジー〜ある意味のもとに集められた作品集ですよね。万葉集『古今』『新古今』も、そして各種の『文学全集』も……と考えて、本が好きでアンソロジーを読んだことのない人は珍しいでしょう。これが『読むもの』というだけではなく『編むもの』でもある。本好きの人の多くが胸の中に『マイ・アンソロジーを持っているはずです。好みの詩を、ノートに書き留めていたりね。仮に作品を並べなくても、お気に入りの一節を記憶しているーというのも、頭の中のアンソロジーです。


澤田隆治が選んだ松鶴家光晴・浮世亭夢若ベスト漫才集】



社員が賃上げ要求に来る。社長が『君達は、働いてる働いてるっていうけど、どれぐらい働いてるか、勘定してみようか』


一年は365日だね。我が社は、8時間労働。働くのは1日の3分の1だ。君達は年の3分の1、122日間働いていることになる。

 

日曜が、年に52日ある。これを差し引くと70日だ。

 

土曜は半ドンで26日分。これを差し引くと、44日。


・昼の休憩が1時間。1年365日から、休憩とは関係ない日曜52日、土曜26日、計78日分を引くと、288日。その毎日につき1時間だから、288時間。24で割ると、12日分となる。この休憩時間を引くと、年に32日しか働いていない。


・さらに定期休暇が16日あるから、引いて16日。

 

・祭日・記念日が年に10日。引いて6日。

 

・春秋の運動会が2日ある。そこは働いてるかね?働いとらん?だったら引いて4日だ。

 

・ところで君は、親の法事、女房のお産、腹痛、親戚の不幸で4日休んでる。何だ、一日も働いとらんじゃないか。

 

ぎゃはは!これ、今やっても、ウケるよね〜! やって欲しいねえ〜!オススメです!♫

 

 

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「箱根0区を駆ける者たち」(佐藤俊)

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箱根0区を駆ける者たち

箱根0区を駆ける者たち

 

 

今年の箱根駅伝東海大学の優勝、感動したねー!ワタシと兄は明治、弟は東海なので、毎年、お正月はテレビに釘付けになるのだ。

 

さて、この本はその東海大の優勝を予告したような内容。「選ばれなかった者たちの“もう一つ”の箱根駅伝。付き添い、計測員、給水員、応援係…「最後の箱根」で、“戦力外”のなった東海大学陸上部4年生たちの挫折と再起を追った、感動のノンフィクション」そのエッセンスを紹介しよう。


私が東海大に興味を持ったのは、2016年「黄金世代」と言われた關颯人は鬼塚翔太、館澤亨次たちが入学したのが発端だ。高校陸上界でトップクラスの選手たちが大量に入学してきたのは、各高校の先生方の推薦もあったが、東海大に大きな魅力があったからだ。その魅力とはいったい何なのか


東海大を取材していくと、両角速(もろずみ・はやし)監督の指導方針が青学大とはまるで異なることに興味が膨らんだ。教育の一環として陸上部をとらえ、個人面談で1年間の方向性を決める。選手個々の自主性を尊重し、選手に選択肢を与え、トライさせる。大学時代に駅伝で勝つことはもちろんだが、卒業後の競技人生を考えての指導青学大の「箱根必勝カリキュラム」とは一線を画していた


東海大の陸上部のホームページを見ると大勢の学生が所属しているのがわかる。2017年は4年生が14名在籍。こんなに選手がるのだと初めて知った。他校と比較しても学生の数が多いのだ。彼等の多くが誰にも名を知られず、静かに競技人生を終えていくのだが、どういう思いで学生最後の1年間を過ごしていくのか。それが名の知れぬ4年生を追いかけるキッカケになった。



箱根を走れないという厳しい現実を突きつけられると両親や恩師の顔が浮かび、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。今まで積み重ねてきた自分の努力や競技人生がシンクロし、自分の中に押し留めてきた感情が爆発する。トイレや自分の部屋などで一人になって涙を流す選手もいれば、中には悔しさのあまり「もう箱根は見ない」と箱根を拒絶する選手も出てくる。深い喪失感が箱根への思いと憎しみという相反する感情を生み出し、自分の気持ちを落ち着かせるのに時間がかかる。それほど箱根を走るというのは陸上部の選手にとって大きなことなのだ。



箱根駅伝を目指す選手のうち、70%以上は一度も走れずに引退していく。残酷な結果、犠牲が多くの選手に突きつけられる分、箱根は真剣勝負になる。だからこそ予期しないドラマが起き、人々の心をよりひきつける。



・箱根から漏れた4年生、11名の選手たちは、16名のエントリーメンバーが発表された日を堺に選手のサポートに回る。「自分らは、箱根0区なんです」西川主務は、そう言う。0区とは、区間エントリーされた選手に安心して箱根を走ってもらうために日々の練習サポートを行う、裏方に回った選手たちのことだ。故障などで走れない選手は、グラウンドの整備清掃はもちろん、データを集めるなどさまざまな雑務をこなし、箱根本番の準備を行い、箱根のレース当日は、各区間で与えられたタイム計測、付き添い、給水、応援などの仕事を全うする。箱根を走る選手たちは、彼らの献身的なサポートのおかげで走りに集中することができる。0区の選手の働きなくして、箱根駅伝は戦えないのだ。



・しかし0区になることは、メンバー発表全一まで箱根を目指していた選手にとって屈辱的なことだ。気が乗らない選手もいる。だが、不思議なことに続けていくうちにチームのためにという気持ちが強くなってくるという。スポットライトは当たらないが、箱根を走る選手たちは彼らの働きに感謝し、本番に臨む。お互いを思う気持ちがチーム全体で箱根を戦うという一体感を生んでいくのだ。l

 

毎年、プロ野球戦力外通告もそうだけど、陰で支える縁の下の力持ちのドラマは感動するよね。オススメです。(・∀・)♪

 

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箱根0区を駆ける者たち

箱根0区を駆ける者たち

 

 

「昭和歌謡 流行歌からみえてくる昭和の世相」(長田暁二)

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もうすぐ平成も終わろうとしている。昭和生まれのワタシは、今こそ!昭和を振り返りたいと思う。

 

昭和とともに歌謡曲は消えた。「昭和の出来事とともに振り返る懐かしの昭和歌謡!!昭和元年から64年まで毎年1曲をピックアップし唄の背景やエピソードを紹介。歌手1000人、流行歌1000曲を収録」そのエッセンスを紹介しよう。


「赤蜻蛉」(歌唱 金子一雄)作詞 三木露風 作曲 山田耕筰 昭和2(1927)年 


1 夕焼、小焼の 赤蜻蛉
 負はれて見たのは いつの日か

2 山の畑の 桑の実を
 小籠に 摘んだは まぼろし

3 十五で 姐やは 嫁に行き
 お里の たよりも 絶えはてた

4 夕焼、小焼の 赤とんぼ
 とまってゐるよ 竿の先


生母への思慕を詠った悲歌(エレジーで、1節は、妾宅(しょうたく)にいて今日も家に帰らない夫を待ちながら、露風を背にとぼとぼ家路をたどる母。そのときに播州平野の夕焼け空の下で背負われて見た赤蜻蛉への回想。

2節は、竜野鶏龍山の麓に母と籠を提げて桑の実を積みに行ったが、母が亡くなった今になってみれば、夢か幻のようだった

3節は、姉妹がいなかった露風にとって、北方の宍粟郡山地からきた姐やは、露風を可愛がり心温かい存在であった。その姐やも15歳でお嫁に行き今では便りもなくなった

4節は、露風が高等科2年のときに詠んだ俳句をそのまま持ってきており、幼年期の淋しく悲しい気持ちの追悼詩である。この詩は露風33歳のときのもので、雑誌『樫の木』の大正10年8月号に掲載された。


「人生いろいろ」(昭和62年 島倉千代子



泣き節、叙情派演歌が看板の島倉千代子が、はじめてこの歌詞を読んだときの感想「詞の中に、受入れたくない悩みを忘れるためにお酒を飲んで飲み明かすというような個所がありました。でも私はお酒を飲まないし、ちょっと受入れがたいと申し上げたら「お千代さんnならどうする」とおっしゃったので「髪を短くしたり、強く小指をかんだりする」と返事をしたら、それがそのまま私向きに歌詞を書き直されました


その他、「洒落男(ゲイ・キャバレロ)」(昭和4年 二村定一)「すみれの花咲く頃」(昭和5年 宝塚少女歌劇団)「月月火水木金金(艦隊勤務)」(昭和15年 内田栄一)「かえり船」(昭和21年 田端義夫)「憧れのハワイ航路」(昭和23年 岡晴夫)「雪の降る町を」(昭和28年 高英男)「月光仮面は誰でしょう」(昭和34年 月光仮面は誰でしょう)「帰ってきたヨッパライ」(昭和43年 ザ・フォーク・クルセダーズ)など。

 

へー!「赤とんぼ」って昭和の曲だったのー!?(@_@!!!オススメです!♪

 

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「やぶさか対談」(東海林さだお・椎名誠)

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さあて、またまたオモシロイ本を読みましたよー!移動中に本を読むんだけど、最近、なかなかじっくりと移動する(?)時間が取れなかったり、事務仕事が多いので読書がすススマないんだよね〜!(笑)

 

ノーベル賞からラーメン王まで、巨大な才能、ユニークな個性を「やぶさかではない」と、このふたりが、生ビール片手にもみほぐす!登場するゲストは、田嶋陽子大江健三郎沢野ひとしドクター中松鈴木その子の各氏。ささいなことに笑いながら、気がつくと核心に迫っている、とっておきの話満載の対談集」そのエッセンスを紹介しよう。



【すき焼きの掟】


(椎名) 俺、昔、植村直己さんとすき焼きやで対談したことあるの。すごく不利なんだ。あの人、生肉が好きだから、どんどん生で食べちゃうんだ。だから、こっちも焦る(笑)。ちょっと塩かけて。火を通すより好きなんだって。

(東海林)好き嫌いで、水の中にいた奴がダメっていう人、いるね。魚とかドジョウとか昆布とか。お豆腐も、一時、水の中にいたからダメって。(笑)あと吉村昭さんのエッセイに出てたんだけど、土の中にいたもんがイヤだっていう人がいるんだって。あんな暗いところで、よくまあ我慢してきたって(笑)。

 


【すぐ欲しくなる売り方」実演販売人 川口隆史】



(川口) お客さんを惹きつけるポイントって何の商売も同じだと思うんですけど、人を集めるコツは二つなんですね。一つは目に訴えて寄せる。野菜のきれいな飾り切りみたいなものをやって見せると、面白いから立ち止まる。それを繋げていくんです。もう一つはお客さんの耳。僕らが喋る、あるいは音を立てる、そうすると「あ、何だろ?」となりますから、それで集める。最初に見た人が買わなくてもいい。「滞在時間」が長くて、要するとサクラになってくれればいい。そうしたら、次のお客さんが来てくれる。最初についてくれた人にはタダであげちゃってもいいと思うくらい(笑)。

 


【酸欠が発想を生む ドクター中松

 


僕は「発想の五重塔というとを言ってましねて。第一層がスピリット、精神ですね
第二層がボディ、体が健全でなければ健全な考えにはならない。第三層が勉強。それもブンジニア(文化系+エンジニア)的な勉強。肉体を健全にするには5つの項目があるんですよ。「何を飲んでますか」「何を食べてますか」「どんな睡眠をしてますか」「どんな鍛錬をしてますか」「どんなセックスをしてますか」これが私のリボディ試論、健康の5大要素ですね。

ジョギングは非常に体に悪いんです。なぜならジョギングは体重の三倍×70%の重さが、腰とか、膝とか頭に振動を与えるんです。体重70キロの人は147キロの衝撃がガンガン加わる。つまりボクシングで連続的に頭を打たれているのと同じ状態なんですよ。


僕の家には「静の部屋」「動の部屋」という発想の部屋があるんですよ。それから発想するときは必ず水に潜るんです。最大の理由は、発想は水の中が一番出るっていうのが僕の理論だからなんですね。息が吸えないと酸素が来ませんね。で、いろんな実験をやってみると、酸素が少ないほうが発想が湧くんです。長時間だと死ぬわけですよ(笑)。だから、死ぬ0.5秒ぐらい前にパッと閃かなければいけない。閃いたら、水中でメモを取らなきゃいけない。僕は水中メモ取り器を発明しました。それでメモをとるわけです。

頭をよくすることが、発明を生むだけじゃなくて、寿命を延ばす。人はまずボケてから死ぬわけですね。頭がいいってことはボケないってことですから、長寿に繋がる。僕はやっぱり東大に入れなきゃいけないと思う。東大の試験は答えがある問題ですね。それにすら答えられない人は、もう論外なのね(笑)。かつ東大に入れても、必ずしも頭がいいわけじゃない。実社会は答えのない問題を解くのが殆どですから、それに答えを出せなきゃいけない。答えのないことがまさに発明であって、誰も考えてない答えのないことに、自分で答えをつくっていくわけです。

 

そおかあ!酸欠が発想を生むのか!お風呂場で試してみよう!オススメです。(・∀・)

 

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「名古屋「駅名」の謎「中部」から日本史が見えてくる」(谷川彰英)

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名古屋へは、少なくても月イチ、多いときは週イチで出張しているから、通算100回は行ってるだろうなあ!(笑)

 

上ゲ駅」?「御器所駅」?「呼続駅」?「前後駅」?「上挙母駅」? あなたは、いくつ読めましたか? 信長、秀吉、家康を輩出した尾張三河の地の「駅名」は 知れば知るほど どえりゃあ、おもしろい!普段、普通に使っている駅の「駅名」にさまざまな歴史的な意味、由来などが隠されている! 」そのエッセンスを紹介しよう。


「名古屋」の由来は2つの説。一つは「名子屋」説。「名子」というのは中世、領主のもとで住居・耕地などを借りて労役を提供し、江戸時代になって本百姓になった人々を意味している。その「名子」の家屋を指しているというのが「名子屋」説。二つ目は「根古屋」「根小屋」説。中世における武士の「館」、多くの武将が割拠していた。名古屋市内では小高い山はほとんど「根古屋」になっていて様々な武将たちが居城していた、那古屋城があった場所もその一つで、そう高くない場所に館を築いたのであった。


・「栄」は名鉄線の「栄生駅」と関連している。当時は「栄(さこ)村」「栄」は「迫」「佐古」あるいは「瀬古」などとも書かれ「狭い」という意味である。特に小高い土地と土地に囲まれた狭い谷のようなところを「サコ」というのが地名の世界の常識である。栄村の人々が出店を出して商売繁盛を願って「栄」と呼ぶようになった。これはこれでおめでたい地名ということになる。一方「栄」が有名になることによって、紛らわしくなり「栄村」の方は「生」をつけて「栄生」とした。初めはこれで「さこ」と読んでいたのだが、いつのまにか「サコオ」と延ばして発音するようになった。


上前津」の「前津」とは文字通り、昔このあたりまで入り江になっていて、船着き場があり「前の津」というところからついたというのが通説になっている。ということはこのあたりまで海が迫っていたということである。大須観音に近い商店街の中の「那古野(なごの)公園」に清寿院という寺院があったのだが明治になって廃され、名古屋市で初めての公園=「波越公園」だった。「波越」とは高波や津波が押し寄せてきて「波が超える」とも考えられ、この「前津」の近くということを頭に入れると、かなり危険地域ではなかったか。「波越」は「なごや」とも読まれ「名古屋」の起源だとする考えもある。

矢場町」の由来は、江戸時代に「矢場」=「弓矢を射る場所」が置かれたということ。駅から西に「三輪神社」に「弓矢場」が作られここで弓矢の訓練をしたことに始まる。

「前後」桶狭間の戦いで亡くなった兵士の首が前後して転がっていたという話や、戦勝した信長側の兵士たちが今川側の兵士たちの首を前後して並べたという話が伝えられている。


豊橋市一帯は江戸時代に「吉田宿」と呼ばれていた。吉田は多くは「葦の生えている田」程度の意味。「葦」は「悪シ」につながって縁起が悪いので「葦(よし)田」になり、それが「吉田」に転訛したというのが経緯である。


豊田市「猿投(さなげ)」。群馬の「猿ヶ京」は「去ヶ峡」で、遠く離れた山間の地を指していると考えられている。(略)


「半田」は「坂田」であった。「サカタ」を音読みにして「ハンダ」としそれが「半田」になった

 

へー!オモシロイ!やっぱり地理ネタ、好きだなあ。オススメです。(・∀・)

 

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「サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年」(大野茂)

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ワタシが小学生の頃、父親が少年マガジンを毎週買ってくれた、当時、130円。マガジン全盛期。空手バカ一代」「天才バカボン」「野球狂の詩」「男おいどん」「デビルマン」「ひとりぼっちのリン」「おれは鉄兵」「うしろの百太郎」「あしたのジョー」「バイオレンス・ジャック」「釣りキチ三平などなど名作が満載!毎週水曜日(だったっけ?)が楽しみだった。

 

 「1950年代終わり、高度成長の入り口に立った時代の空気を察知した小学館講談社は週刊少年誌創刊に向けて始動。早くも激しい先陣争いを展開した結果、サンデー、マガジン2誌同時創刊に至る。線の太く丸いメジャー漫画家の獲得、“さわやか”イメージ戦略、正統派ギャグ漫画路線を掲げるサンデー。他方、マガジンは、原作と作画の分業体制、情熱的な“劇画”路線と巻頭グラビア大図解を展開―それぞれ独自の方針を掲げ、熾烈な読者獲得競争を繰り広げた。本書は、両誌の黄金時代を現場で支えた男たちの人間ドラマに迫る。元編集者の証言は、私たちにスリルと多くの知恵を与えてくれる。懐かしい名作やブームの裏話も満載」そのエッセンスを紹介しよう。

・これは、昭和の行動成長期(1958〜1973年)の約15年における少年週刊誌の闘争の歴史である。その始まりは今から50年前、日本初の週刊少年誌が2つ、同時に創刊された。その名は週刊少年サンデー週刊少年マガジン。奇しくも同じ発売日、編集部の人数も13人だった。しかし社風も、作家へのアプローチの方法も、まるで異なる2つの編集部。


両者の抜きつ抜かれつのデッドヒートの中から数々の名作やブーム(マンガだけに限らず、拳銃、切手、プラモデル、アイデア商品、怪獣etc……)が巻き起こされてゆく。流行っている音楽や映画には、必ずプロデューサーがいるように、どんな天才作家がいて、傑作が生まれたとしても、それを世の中に広めるためには、編集者という陰の仕掛け人の存在が必要である。「サンデー」「マガジン」という2つの週刊少年誌の競い合いがなかったら、現在の日本のマンガ文化の隆盛はなかったといっても大袈裟ではない。そして、その闘いの歴史には、個性豊かな編集部員たちの人間ドラマが秘められていたのである。


・1954年(昭和29)年、サラリーマンの大卒初任給が1万3千円、年収が20万円以下の時代、関西の長者番付の画家の部でトップの横山大観に続いて『第二位 手塚治虫 年収217万円』があった。大人は誰も知らなくても、子どもはみんな知っている。王道を走り続ける手塚の後を、横山光輝が『鉄人28号』で猛追していた



・各地のPTAや日本子どもを守る会、母の会連合会などによる「悪書追放運動」で内容に関係なく『マンガである』というだけで、悪書のレッテルを貼られた。『活字と違い、マンガは子どもの思考力を阻害する』『マンガを読むとバカになる』という俗説が大手を振ってまかり通って行くようになる。当時、マンガの広がり方の、そのあまりの凄まじさに恐怖心を抱いた児童文学者や評論家たちが、出版界における自分たちの領域を侵されないよう、保身のために、図書館と結託して悪書追放運動を仕掛けたのだという。真相は定かではない。


小学館で一番重要な雑誌、それは「小学一年生」である。入学初年度に学年誌の読者になってもらえば、そのまま「二、三、四……」と読者はスライドしていく。ところが卒業すると、みんな旺文社の「中学時代」へと移ってしまう小学館では中学生以上を惹きつける定期刊行誌のポジションが手薄なままだったのである。


・「社長、週刊少年誌のタイトル、「少年サンデー」でやりたいんですが……。この雑誌を読むとまるで日曜日のように楽しい気分に浸れるような「少年サンデー」って名前、太陽雨のイメージで、明るくっていいでしょう?月〜金は学年誌土日はサンデーを読もう、ってどうですか?」

・「内田くん、編集長になったら、自分で企画を考えてはならない。作家にせよ、編集部員にせよ、いかに上手に人を使うか、それだけを考えなさい。僕が贈る言葉は、これに尽きます」(講談社顧問 加藤謙一


今ではショックの代名詞でもある「がーん」という擬音表現は、川崎のぼるがマンガ史上初めて使用したものである。主人公・星飛雄馬の頭の上にかぶさる「がーん」の文字に梶原一騎が感心し、逆に今度は原作の文字原稿にそれを多用するようになった。感動シーンの背景に描かれる巨大な夕陽、そして瞳の中の燃える炎……燃える瞳の場合は、梶原の文字原稿に「飛雄馬の両眼には炎が燃えていた」とあるのを、川崎がそのままダイレクトに表現し、またもやそれに梶原が感服し……と、2人の作者の熱い化学反応によって、この作品は不朽の名作へと昇華していったのである。にもかかわらず5年の長期連載中2人は数度しか会ったことがなく、しかも面と向かって作品に関する話は一度足りともしなかったという。


・僕はその頃、藤子不二雄さんたちと話していて、今の子どもが失いつつあるもの、それは「時間」と「空間」と「仲間」、この3つだと気づかされた。受験勉強で時間がなくなり、遊ぶ空き地もなくなり、イジメで仲間もなくなっている。3つの「間」をなくして、子どもが皆、孤独になっていく。やっぱり子どもマンガっていうものに対する気持ちは、我々は捨てないでおこう、っていうことを再認識しました。こういう志を持ったマンガ家たちとサンデーをつくってゆくべきだなって」(少年サンデー5代編集長 高柳義也)


その他、「先陣争い」「危機を好機に」「サンデー快進撃」「TVマンガの時代」「万博とよど号」「しのびよる黒い影」など。

 

すごい!まさに「少年誌戦国時代」だったんだね〜!手塚治虫横山光輝藤子不二雄ちばてつやジョージ秋山水島新司などのエピソードに感動するね。マンガファン必読!超オススメです!(・∀・)

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「幸運の文明 日本は生き残る」(竹村公太郎)

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幸運な文明―日本は生き残る

幸運な文明―日本は生き残る

 

 

数年前に感動した『日本史の謎は地形で解ける』シリーズ。著者の竹村公太郎さんの着眼点に驚き、感動した!地理、地図好きなワタシ、さらに好きになった。

 

さてこの本。竹村さんの文明論。「日本の歴史は、地形によって守られ、形作られて
きたのだ。日本文明の過去と未来を、地形・気象・インフラ構造の視点から照射する
と、以下のように思わざるをえない。「日本文明とは、なんとツイているの
か!」そのエッセンスを紹介しよう。


人々の文明を支えているのは、実は目に見えない下部構造である。この下部構造は、希少と地形の上に構築されている。日本の気象と地形を見詰めていけば、文明の下部構造が解明でき、さらに、その下部構造に支えられた文明の上部に肉薄できる。


石炭燃料と蒸気機関は地球の空間の概念を変えた。しかし、蒸気機関は大きな重荷を負っていた。文字通り、重い石炭と重い水タンクを背負っていたのだ。蒸気機関は石炭を燃やし、その熱で水を熱し、水蒸気でタービンを回す。だから蒸気機関は常に大量の石炭と大量の水を携帯しなければならなかった。人と物の自由で素早い移動は、20世紀まで待たなければならなかった。


人間は情報の塊である。人間以上に情報が詰まったものはこの地球上にない。人間以上に有効な情報伝達装置もない。ガソリンを携帯した人々は素早く行き交い、多くの人々と出会った。出会った人々は情報を交換し、その情報を組み合わせた。情報の新しい組み合わせが人類の知であった。20世紀の情報ネットワーク社会の誕生であった。情報の塊・人間が激しく行き交う20世紀の情報ネットワーク社会の出現は、500万年前、人類が直立二足歩行して得たヒトの脳・大脳皮質の爆発的発達に匹敵していた。


その他、「石油エネルギーを自動車に使えなくなる日」「現代文明は崩壊するのか」「水車が日本を救う」「生きているリン鉱石」「石油争奪戦の21世紀」「21世紀の食糧危機を救うものは」「食料自給を可能にする人口減少」「権力者がつくった自然」「いとしき命の江戸夜景…消えたダムの300年物語」など。

 

やっぱり日本はいいね。我々のベースはこの地形にあったのだ!竹村さんの本、全作品読破しよう!超オススメです。(・∀・)♪

 

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幸運な文明―日本は生き残る

幸運な文明―日本は生き残る