「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「読む・知る・愉しむ 東京の地理がわかる事典」(鈴木理生)


またまた地理本。地理を知ると私たちの生活の歴史が分かるよね。(・∀・)

以外なことだけど、都心は400年前まで海だった!?ということが分かると様々なナゾが解けるよね。そのエッセンスを紹介しよう。


・約一万年前の縄文前期の関東地方の地形。その貝塚の分布から当時の海岸線の状態がはっきりとわかる。東京湾は内陸部の奥深く、今の栗橋あたりまで海が入り込んでいたのである(海進)。東側の東京下町低地の大部分は海だった。つまり、北・台東・千代田・港区の東部、中央区の一部と、品川・大田区の東部、および隅田川以東部の足立・葛飾・江東・江戸川区などは水面下だったのである。つまり、京浜東北線は、約一万年前の東京の海岸線をなぞっているのだ。海進・海退という自然現象に重なって、大昔の人間が食料を得やすい波打ちぎわにすんだ証拠である貝塚を残したり、約130年前に鉄道が建設された際、古い地形の境を選んだりという地形の変化についての証拠が二重三重に残っていることも、東京の地形をみるときの手がかりとなるのだ。


・明治末からの東京の膨張で、おもに電鉄会社などによる郊外の宅地開発が進むと、その沿線の駅名に「山」の字をつけるのが流行した。それは地理学的な意味での山ではなく、下町に対する山の手=高級住宅地を思わせるための命名だった。電鉄会社によっては山のかわりに丘・台といった呼称で、高級感をもたせている。大岡山・大山・久我山・代官山・八幡山・平山・浜田山・東山・円山・丸山などがある。


・浮世絵で見る江戸の風景には、よく中央部が高い太鼓橋が描かれている。これは画家の誇張ではなく、実際江戸の橋の多くはこの型につくられていた。理由は舟の航行の邪魔にならないようにだ。とくに河口にかけられた橋は、橋桁が高いことから「タカバシ」(高橋)と呼ばれていた。当時の貨物輸送の主体は水運だったため陸路より水路が優先されたのだ。


・元和2(1616)年、駿府に隠居していた徳川家康が死亡すると、駿府詰の家臣たちが江戸に戻ってきた。彼らには、新しく開発した神田台を宅地として割り当てた。それ以降、神田台を「駿河台」と呼ぶようになったのである。


「国立」の地名は、国分寺と立川の各駅名から一字ずつとって、「ここより国が立つ」との意味を込めてつけられた。市の総面積の約三分の一の地域が文教地区の指定を受けている。これは、朝鮮戦争で立川が米軍の輸送基地となり、隣接する国立に風俗営業が進出してきたのに対して、住民が中心となって「文教地区運動」が展開され、昭和27年に指定されたものだ。


明治18年3月1日、民営の日本鉄道株式会社の「品川線」が開業した。品川線は、新橋ー品川間の4.9キロは官営線を走り、品川ー渋谷ー新宿ー板橋ー赤羽の約30.7キロ、一日三往復、片道75分。これが現在の山手線の原形で、日本鉄道の高崎線建設と並行して建設されたが、開業当日は、乗客ゼロだったが、生糸輸送が主だったため、経営者は問題にもしなかった。山手線が環状線になったのは大正14(1925)年1月のことだった。


江戸=「日比谷入江の門戸に当たる場所」=「江の戸」だという説が代表的だ。つまり、江とは海や海水が陸地に入り込んだ場所であり、戸=門(ト)は水流(朝汐の干満)の出入りするところだという。


ああ〜やっぱり地理はオモシロイっ!オススメです。(・∀・)