最近、ハマっている宮本常一関連の本。キーワードは「世間」「庶民」。いいなあ、惹きつけられるなあ!♪
『忘れられた日本人』で知られる民俗学者・宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは_「大きな歴史」から零れ落ちる「庶民の歴史」。日本列島のすみずみまで歩き、聞き集めた小さな歴史の束から、世間や民主主義、多様な価値、さらには「日本」という国のかたちをも問いなおす。傍流として、主流が見落としてきた無名の人びとの「語りの力」を信じて――。そのエッセンスを紹介しよう。
・宮本常一(1907〜81)は、「もの」 を民族学の入り口にした。たとえば生産活動などの用いてきた「 民具」を調べることで、 私たちの生活史をたどることができると考えた。 そして民俗学における伝承調査と「もの」 への注目に寄せていくことで、私たちの「心」 にも到達できると考えたのだ。
・宮本常一の民族学で特徴的な言葉に「世間」がある。 世間は一般的に「世間様」「世間の風」 というように共同体の外側にある社会、 あるいは人びとの行動を成約する無形の規範のこととしても理解さ れる。人が生活し、構成する「人の世」、人びとの交わり、「 世の中」「世界」を指す言葉になった。そこから「世間」は「 世間体」という言葉で表される「しがらみ」 のもととなる境域として使われることが一般的になる。
・しかし、宮本が「世間」という言葉を使う場合、 独自の意味をこめる。「世間」を肯定的、積極的に用いている。「 世間師」は共同体の外側にあり、多様な価値で成立している「 世間」を渡り歩く存在だ。共同体の外側にある価値、 文化や産業や生活といったものを見て歩き、 そうした価値を自らの共同体に刺激として持ち帰る。 共同体の漸進的な発展は、 世間師によってもたらされてきたのである。
・明治時代から大正、昭和の前半にいたるまで、 どの村にもこのような世間師が少なからずいた。そして、 政府や学校の指導によってではなく、 世間師が村を新しくしていくためのささやかな方向づけをした。 つまり世間氏の営為によって、 村は世の中の動きについていけたともいえる。 こうしたことから過去の村々における世間師の姿は掘り起こされて よいと宮本は考える。
・宮本が「私たち」 の過去の生活を知るためのよりどころとしたのは、民族伝承・ 民間伝承よりも、民俗技術・民間技術というべきものだった。 特に民具の研究をとくに推し進め「民具学」 を提唱するようになる。
・村人の大半はつつましく健全に暮らしを歩んでいる。 そういう人びとが農民の大半だとすると、 その人たちの生きてきた姿を明らかにしておくべきではないか。 その人びとは戦争が嫌いで、仕事の虫のように働き、 貧乏ではあったが、生き抜く力をもち、隣人を信じ、 人の邪魔をしてこなかった。 一般大衆は声を立てたがらないからといって、 彼らが平穏無事だったわけではなかった。 宮本は民俗学の重要な仕事は、 こうした歴史を残しておくことだった。
・民衆(常民) の生活を知るためには民衆と同じ立場に立たなけれればならない。 同じ立場に立つことによってのみ、 その真意をつかみ得るというものである。
・宮本によると、 農耕社会ではなぜ多くの民俗行事を必要としたか、 民俗行事の意味は何であったかも重要な問題である。 年中行事も詳細に見ると、生を守り、 種を永続させるための神への祈りの行事の連続である。「住」も「 衣」も、親族組織・社会組織も、みな生につながるのである。
・寄り合い=村でとりきめをおこなう場合には、 みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。 はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、 それぞれの地域組でいろいろに話し合って区長のところへその結論 をもっていく。 もし折り合いがつかねば自分のグループへもどって話し合う。 理屈をいうのではない。 一つの事柄について自分の知っているかりぎの関係ある事例を上げ て行いくのである。
・文化を見ていく場合にに大事なのは、 ひとつの対象物だけを見ればいいのではなく、 相関関係で見ていかなければ、 本当のことがわかってこないということである。
「残酷」という感情