「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「世間」とは何か(阿部謹也)

 

先日読んだこの本。インパクトあったなあ。「世間と空気」ってそういうことだったのかあ!自分が日本人だという自覚が明確になったなあ。(^^)

 

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そこに引用されたのが、この本。阿部謹也さんって一橋大学の学長だったんだね。思慮深い分析に感動っ!!!

 

日本人の生きてきた枠組「世間」とは何か。古代から現代まで、日本人の生活を支配し、日本の特異性をつくってきた「世間」の本質とは?ヨーロッパの「社会」を追究してきた歴史家の視点で問い直す」そのエッセンスを紹介しよう。

 

世間という言葉は「世の中」とほぼ同義で用いられているが、その実態はかなり狭いもので、社会と倒置できるものではない。自分が関わりを持つ人々の関係の世界と、今後関わりをもつ可能性がある人々の関係に過ぎないのである。自分が見たことも聞いたこともない人々のことはまったく入っていないのである。世間や世の中という場合、必ず何らかの形で自己の評価や感慨が吐露されていたのである。
 
・わが国の社会学者は、学問の叙述にあたっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮らしてきた。したがって叙述の中に自己を示すことができなかったのである。
 
私たちの誰もが世間という言葉を使っている。それにもかかわらず世間とは何かとい聞けばきちんと答えられる人はいない。世間について研究した人はほとんどいないのである。世間と社会とは違う。西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会を作るとされている。
 
・家庭の中で親が子供に「日本の社会では…」と話すことはそう多くはないだろう。しかし「そんなことは世間には通用しないよ」などということはしばしばあるだろう。
 
・多くの日本人にとっては人類という観念は遠いものにすぎず、「私達人類は皆兄弟」という科白(せりふ)もあまり実感をもっては受け止められない。日常生活の次元では、実感をもって仲間と考えているのは自分の世間の中の人だけだからである。世間には会員名簿などはない。したがって誰が自分の世間に入っているかは必ずしもはっきりはしないが、おおよその関係で解るのである。
 
・私達の人間関係には、呪術的信仰が慣習化された形で奥深く入り込んでおり、その関係を直視しなければ日本人の人間関係は理解できない。その呪術的関係のひとつに死者の霊魂の問題があることはいうまでもない。
 
・政治家や財界人などが何らかの嫌疑をかけられたとき、しばしば「自分は無実だから、世間を騒がせたことについては謝罪したい」と語ることがある。この言葉を英語やドイツ語に訳すことは不可能である。
 
日本人は自分の名誉より世間の名誉の方を大事にしているのである。
 
・この百年に間わが国においても社会科学が発展してきたが、驚いたことにこのように重要な世間という言葉を分析した人はほとんどいない。明治十(1877)年、Societyの訳語として社会という言葉がつくられた。そして同十七年頃にIndividualの訳語として個人という言葉が定着した。それ以前にはわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。
 
「世間はどのように捉えられてきたのか」「真宗教団における世間ー親鸞とその弟子達」「色と金の世の中」「なぜ漱石は読み継がれて来たのかー明治以降の世間と個人」「荷風と光晴のヨーロッパ」「世間の内と外ー東村の「破戒」」「漱石と世間」など。
 

はあ〜〜!!!そうだったのかあ!目からウロコが落ちたなあ。そう、そう、その通りだったのかあ!これが日本人の本質だったんだね。日本人必読、読むべし。超オススメです。(^^)