さてこの本。「死に際しても黙して語らなかった。「一生涯高倉健」を貫いた「終」の美学。1984年から2014年まで高倉健を取材し親交していた編集者が、「高倉健」が人生の終い方を探し求めた30年間に向き合った。白洲次郎の「葬式無用 戒名不用」、江利チエミとの死別、酒井大阿闍梨の「契り」。高倉健が数々の別れを経験しながら、自らの死に方を見つけていった姿を描く」そのエッセンスを紹介しよう。
・2017年11月、高倉健(本名・小田剛一)さんの祥月命日を迎えようとしていた。今になっても健さんの遺骨が埋葬されたという話を聞いていなかった私は、福岡県中間市にある小田家の先祖の墓を訪ねることにしていた。健さんの甥、デザイナーの森健(たけし)さんから「伯父のお寺に記念碑を建立する事になりました。お寺の入り口ですので是非見てください」表面には、剛一さんの好きな言葉『寒青(かんせい)』という二文字。後ろにある石段からも眺めてもらいたいと、背面に牡丹の花が六輪。剛一さんのご家族六人の魂を刻んだもの。
・2017年11月、高倉健(本名・小田剛一)さんの祥月命日を迎えようとしていた。今になっても健さんの遺骨が埋葬されたという話を聞いていなかった私は、福岡県中間市にある小田家の先祖の墓を訪ねることにしていた。健さんの甥、デザイナーの森健(たけし)さんから「伯父のお寺に記念碑を建立する事になりました。お寺の入り口ですので是非見てください」表面には、剛一さんの好きな言葉『寒青(かんせい)』という二文字。後ろにある石段からも眺めてもらいたいと、背面に牡丹の花が六輪。剛一さんのご家族六人の魂を刻んだもの。
・2019年春で幕を閉じることになった平成。昭和という時代を背負った俳優にとって平成はどのような時代だったのか。「高倉健」という人生の終い方を探し求めた一つの時代に、私は向き合ってみようと思った。
・「山田洋次監督が凄いなと思うのは、いつも反省している。撮り終わってからも、まだずぅっと反省しているの。『もうとっくに終わったじゃねぇか』って(笑)。でも、ちょっと感動はしますよね。とても敵わないと思いますよ」
・(大原麗子)「私、健さんが大好きなんです。あれほど一生懸命に仕事をする人、今までにお会いしたことがありません」「健さんと仕事をしてから、私、仕事に“お”の字を付けなくなったわ。“お仕事”じゃなくって、“仕事”。命を賭けてやるものに“お”を付けると、なんだか甘っちょろいじゃない。これは、健さんの生き方から麗子が学んだことなの」
・江利チエミとの幸せは長続きしなかった。世田谷にあった自宅の火災、妊娠したものの出産できなかった母体の事情。チエミさんの身内(母親と前夫との間に出来た義姉)が作った莫大な借金と財産の横領。それを健さんに背負わすまいと自らが申し出た離婚だった。(江利チエミ)「ただ残念です。悔いがないと言えば嘘になりますが、よくこんな女を長いこと傍に置いてくださったと感謝しています。これからも私の心の中に残しておきたい」
・「その女性は話別れてから十年、思いもかけずに亡くなりました。その訃報を聞いた瞬間、随分昔に別れたはずの女性との本当の別れがきた、そう思いましたね。自分の心の中にやり残したものがあることに気づきました。いつか時機が来たら、その女性に伝えたいと思っていたことがあったんです。それを伝えられない世界へ独り逝かせてしまった。……自分は過去に悪いことをやってきたかもしれない……」少なくともあいつにはいい旦那ではなかった。何もしてあげられないうちに独り寒い所へ逝ってしまった……。自分本位の生き方を思い知らされました」
・「チエミさんは結婚を機に、家庭に専念しました。健さんは仕事に入ると役になりきろうとされる。チエミさんはいつしか、満たさないものを感じ始めていたのかもしれないですね。気がつかないうちに自分の歌をくり返し聴くようになっていったようです。まだ、自分にはやり遂げなければならないことがあるー。チエミさんは、大衆に夢を与えるために生まれてきたことに気づいてしまった。歌うことで生きる喜びを感じていたあの時代にもう一度、戻りたくなったのでしょう」それから二人はすれ違いの生活に流されていった。
・健さんの「沈黙」にはさまざまな言葉があった。他者を思いやっての行いは周囲の心まで温める。
・『俺は転職なんかしないよ。このまま俳優を続けて、長い休みを取って、豪華客船のサンデッキで身体を陽に焼いていると、なぜか、そこに銀座ウエストのレアチーズケーキが届けられる。ありがとう、と言って食べたら、それが喉に詰まってね。健さん、息をしていませんね、みたいな。こんな最期がいいなあ』
・健さんの退き際は枯淡の境地ではなかった。「早く撮影現場に帰りたい」と、映画への一途な想いに身を捩(よじ)っていたのではないか。不測の運命など疑いもしなかったからこそ、病を隠し、親しい人との交流を絶ち、親族にも知らせなかったのではあるまいか。「大事なことはそうぺらぺらと喋るものじゃないぞ」という、自分の言葉にたがわぬ覚悟だった。
・健さんは九十歳までの俳優道を公言していた。あらゆる欲望をセーブし、強靭な肉体と精神を鍛え、それを具現化しようと努めた。やがて、一縷の望みが断たれようとした時、厳寒の網走、八甲田山、南極……。必死だった「あの頃」が心のなかに蘇り、多くの仲間の顔が瞼に浮かび、“一生涯高倉健”で終わる決心をしたのではないか。
・健さん若かりし頃、東映京都撮影所で出逢った大御所俳優は、映画以外にはほとんど出演せず、観客に私生活を見せない「銀幕のスター」だった。いつしか彼らは力強い陰翳だけをスクリーンに残して、この世からきっぱり姿を消してしまっている。その天晴れなまでの生き様(よう)が健さんの心の内に残像のように消えずにいたのではないだろうか。
かーっ……!!!いいなあ……ワタシと真反対だなあ……真似できないなあ……ワタシはもっと目立ちたいもんなあ。(笑)超オススメです。(^^)
追伸 こちらの本も併せて読もう。オススメです。(^^)