30年以上前から、紙に書いている夢のひとつに『紅白歌合戦に出場して、白組の勝利に貢献すること』というものがある。出場するだけだったら、審査員でもいいかもしれないが、歌い手として出ないと意味がないっ!!と言い続けている。
その後、ワンマンライブをやったり、定期的に「流し」でギャラをいただいたり、福岡クリスマスマーケットに出場させていただいたりと、ミリ単位で夢に近づいてきている。さあ、いまのうちに「紅白」の勉強をしておこう!と読んだのがこの本っ!!!
・17歳で「紅白」を目ざして、フォーク歌手として渡辺プロダクションがからデビューし、居間も出場を夢見ている…というだけならまだいいのなら、私の場合はちょっと異なる。第一回からの出場者はもとより、歌った歌、歌った順番まで頭の中に記憶し、「紅白」だけを楽しみに小さい頃から過ごしてきたのである。いつか自分が出るためにも、そのうちの「紅白」研究を重ねたい……と思ったわけでもないのだが、「紅白」から日本歌謡史を勉強するようになって、そのうち「紅白」に出場した本人たちから当時のエピソードを聞き、頭に入れるようになる。自他ともに認める“紅白オタク”“紅白マニア”に変貌していったのである。
・一時は毎年80%近い視聴率を稼ぎ出していた「紅白」は、今や過去のものになりつつある。でもまだまだ国民的行事のひとつと言って、過言ではない。「紅白」をひもときながら、時代を歌で検証してみよう。「紅白」を通してあのときを思い出してみよう。真実を見つめてみよう。
・昭和38(1963)年の大晦日の「第14回」は、視聴率、なんと81.4%。怪物番組「紅白」が、“国民的行事”と呼ばれるにふさわしい数字である。父や母によればステレオから流れる歌は、童謡ではなく畠山みどりの曲ばかりだった。当時は、美空ひばりを抜く歌手がとうとう誕生!といわれたほどにヒット曲を連発していた。司会者は江利チエミと宮田輝。江利チエミは初めて、司会と歌手を兼任している。最多出場11回、れっきとした紅白の顔である。トリの美空ひばりが8回目だからチエミの活躍度の高さは納得だ。
・昭和41(1966)年、ビートルズが来日。それまでは、外国の歌でも日本人歌手が歌うことでより広がるというケースが多かった。『可愛いベイビー』の中尾ミエ、『ヴァケーション』の弘田三枝子、終戦後の江利チエミ『テネシー・ワルツ』、平尾昌晃の『ダイアナ』などの日本語バージョンで、より日本人に浸透していったのでだ。それがビートルズだけは、そうはならなかった。いや、ビートルズナンバーも日本語詩でカバーした歌手がいたにはいたのだが、ことごとくヒットしなかった。つまりビートルズだけはビートルズであって、日本のどんな歌手が歌っても、ビートルズを超えられなかったのだ。このビートルズの出現で、カバーのヒットが急に少なくなっていくのである。
・昭和50(1975)年、沖縄海洋博の年、この2、3年前から歌謡界では、よしだたくろう(吉田拓郎)、井上陽水らによって、テレビに出演しなくてもヒット曲を連発させるという現象が出始めていた。テレビ=ヒット歌手の図式が、この年から急激に変化する。つまり、バンバンも小坂恭子も甲斐バンドも、それにマイ・ペースも小椋佳も、テレビが生んだスターではなかった。ラジオやレコードから流れる彼らの歌声は、確実に若者の心をとらえていったのである。
・昭和20(1945)年、敗戦。「歌で人々に勇気を与え、日本の新しい時代の幕開けにふさわしい音楽の番組を作れ」そう命じられたふたりの男がいた。NHKの新進ディレクター、近藤積、三枝健剛。こちらのご子息は、作曲家の三枝成彰。三枝は現在まで続く「NHKのど自慢」を企画した人物で「のど自慢素人演芸テスト風景」の名で翌21(1946)年にスタートさせた。そして近藤が考え出したのが、「紅白歌合戦」だったのである。
いいなあ。ページをめくるごとに、ワタシが影響を受けた昭和の音楽史を読んで、際限して再体験しているようだ。懐かしい!超オススメです!(・∀・)