最近、再読をしている山本七平氏。今の時代にあっても通用するもの、気づくことがたくさんあるなー!この本もまさにそう!(・∀・)
「あなたの「常識」、本当に合ってますか?「常識」 つまり生活の行動規範とそれを基とした事象への判断を取り上げ、 国際化時代の考え方を説く。今こそ現代人が読むべき啓蒙書」そのエッセンスを紹介しよう。
・「常識」とは、 簡単にいえばわれわれの日常生活の行動規範であり、 同時にそれに基づく判断の基準である。 そしてこの面に関する限り、 現代の日本も基本的には戦前と変わっていない。 日常の行動規範とそれの基づく判断が変わらなければ、 人間は本質的には戸惑いをせず、戸惑う点があれば、 人が口にしている「虚構の権威の言葉」 が変わったという点だけだ。これは終戦のとき、 すべての人にとって少しもむずかしくなかったのと同じで、 大した問題ではないからである。
・イスラエルに来ている間、日本の新聞・雑誌は全然読まず、 テレビ・ラジオからも絶縁されていると、 あらためて日本における「マスコミ」 とは何かという問題を感じざるを得ない。 日本語は確かに鎖国の言葉である。日本の新聞が、中東問題をどのように報じようとそれは現地には何の影響も及ぼさ ないし、 現地においてこれは本当に重要問題だなと思われることは、 日本で何一つ報じられていなければ、 そういう問題だなと思われることは、 日本では何一つ報じられていなければ、 そういう問題があることすら、日本ではわからない。
・情報は、自己の感触と違うものほど価値がある。同じなら、 ある意味では無用である。
・私はときどき、 大臣とか社長とかいった人の任務は何であろうかと考える。 おそらくは政治の、あるいは経営の「大きな方向づけを誤らない」 ということであろう。これさえ誤らないなら、ゴルフをしようと、 テニスをしようと、居眠りをしようと一向に差し支えない。
・世の中には手品もなければ奇跡もない。少し長い目で見れば、 単純の計算通りの答えが出ているとしか考え得ない。だが、 この世の中で最もむずかしいことは、 きわめて初歩の原則を単純に守ることだと思う。 原則の簡単なものほど実施は難しい。
・何気なくある中学校社会科教科書をぱらぱらとめくっている、 次の言葉が目に入った。「イエスは、 ユダヤ教のせまい考え方を乗りこえ、身分や民族の差別なく、 信じるものはだれでも救われるとする教えを説いた。 これがキリスト教である」私は驚いて跳び上がりそうになった。 あの膨大にしてかつ複雑な書の内容が何と七〇 字に要約されているのである。 さらに何となくわかったような気持ちになるということである。
・だが「この言葉は具体的に何を意味するのか」と質問したら、 書いた御本人が何一つ答えられないのではないかと思った。「 ユダヤ教のせまい考え方」とは?「乗り越える」 とはどういうことか?「身分や民族の差別なく」とあるが、 どこにその典拠があるのか?、 これと明確矛盾するイエスの言葉をどう説明するのか。
「「変節」とは何か」「人望学という学問が成り立たないか?」は、共感できるなあ。