「信じるな、疑うな、確かめろ!」というのがウチ(SA)のキャッチフレーズであり、この混沌とした時代を生き抜くキーワードだと確信している。
さて、この本!感動したなあ!「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
「大井川は江戸時代を通じて橋が無く、川越し人足が旅人を渡した。なぜ橋を架けなかったのだろうか。写真、図表、史料を用いて、橋博士と呼ばれている著者が、理工学知識を駆使して通説をくつがえしていく」そのエッセンスを紹介しよう。
・「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 と馬子唄にも歌われたように、東海道を旅する人々にとって、 大井川は最大の難所であった。 江戸時代の大井川には橋が架けられていなかったばかりでなく、 渡船の設置も認められなかった。 そのため旅行者は多額の費用を払って、 肩車か連台に乗せてもらって川を渡った。 何よりも人々を悩ませたのは、川が増水すると、 幾日も近くの宿での待機を余儀なくされたことであった。 大井川だけではなく、安倍川、興津川、酒匂川などがあった。 なぜ一部の川でこのような一見不合理な渡河方法が行われていたの だろうか。 そしてこの方法がなぜ200年もの長い間続くことになったのであ ろうか。
・一般的には、 江戸防衛のために幕府がわざと橋を架けさせなかったとする説明が よくなされる。そのような言わば大井川徒渉(かちわた) し江戸防衛説に疑問を抱き始めたのは、随分前のことである。 徳川家康は、江戸入府直後の政権が不安定なときにもかかわらう、 千住大橋と六郷大橋を架けている。 さらに東海道筋には川幅50mを超える川が30ほどあるが、 そのうち20カ所ほどには橋が架けられていたこともわかった。 防衛を優先するなら、橋を極力少なくするはずではないか。
結論 「おわりにー大井川に橋は架けさせなかったのではなく、 架けられなかった」
1 技術的要因
大井川は東海道筋では特に勾配の大きい急流河川で、 河床変動が激しいことに加え、河床には砂礫層が堆積しており、 当時の杭打ち技術では深く打ち込むことができる、 安定した橋脚を造ることが難しかった。 従来の木造構造えは安定した橋は望めなかった。 流量の変動が大きく、年間50日ほどは渡河が困難となったが、 一年の内約三分の二は水深が1m以下で、 比較的容易に川を渡ることができた。川瀬が複数あって、 船による渡河の効率が悪く、 水深が浅くなって船を通すのに支障になることがかなりあったこと が、渡船も通船も導入されなかった理由であると考えられる。 通行者が比較的少ない時代には、 徒渉しが最も効率のよい方法であった。
2 経済的要因
大井川に橋を架け、 維持していくためには多額の投資が必要であったが、 当時の利用者数から見て投資に見合う便益効果は少なく、 幕府は直轄で橋を架ける必要性を認めていなかった。 また民間で有料橋を架けて運営するほどの経済機構が、 地元にも育っていなかった。 幕府が川越しの組織にお墨付きを与え、 割高な料金を設定したため、その組織は大きく、 強固なものになり、まれに見る巨大な組織に成長してしまった。
3 政治・行政的要因
大井川での大きな収入があり、 幕府の交通政策を支える財源の一つになった。 他の合理的な渡河手段の提案がなされるようになっても、 巨大化した川越し組織の保護や幕府の行政機構の存続という目的の ために、 改革されることなく幕末に至るまで続けられることになった。
一方、第一線の川越し人夫たちは、 命がけで旅人を安全に渡すよう心がけ、 誇りをもって仕事にあたっていた。川会所の世話役は、1, 000人もの人足の雇用と生活を守るために努力していた。 交通行政の担当役人は、 幕府の基本政策である宿駅制を守るために、 大井川の川越しを擁護し、 そこからの刎銭の一部を運営費に回す精度などを作るなどの努力を 重ねた。その積み重ねによって、 当時としてはまれに見る大きな雇用を生み出し、 一種の運輸企業として地元に大きな利益をもたらした。 幕末には1300人を超える従事者がおり、 家族を含めると3000〜 4000人がそこからの糧を得ていたことになる。
川越しの関係者は明治初年になった辛苦をなめる転業を余儀なくさ れることになったが、 そのときリストラの対象とされた人々の一部が、苦労の末、 茶の生産を定着させて茶どころ静岡の名を高めたことは、 暗闇の中に一条の光明を見る思いがする。
すごいなあ。「日本史の謎は「地形」で解ける」(竹村公太郎)ぐらいの感動だなあ!
知的好奇心をくすぐる本です。超オススメです!(・∀・)