「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ショージ君の「料理大好き!」」(東海林さだお)

さて、いよいよ久しぶりの東海林さだおである。この本では、ショージ君自ら、包丁を握り、数々の料理にチャレンジしているのだ。そのエッセンスを紹介しよう。


・ぼくは、魚を「おろす」という作業にどういうわけか心惹かれる。魚をおろすという作業は、剥がすというか脱がせるというか、そういう行為に類似している。
はたまた「パンツをおろす」などというふうにも使う。パンツをおろすと、その次に、なにか楽しいことが待ってる場合が多い。剥がしたり、脱がせたり、おろしたりは、男子にとってもっとも楽しい行為である。


・「餃子ってのは、あのカリカリに焦げた皮ねあのアツアツのカリカリをアフアフなんていいながらバリっと噛みくだくと、なんともいえない香ばしさがあって、そこのところが…」
「大陸では、焼餃子はあまり食べません」「ア、ソ」「ほとんど蒸し餃子か水餃子です」「ま、蒸しても水でもいいけど、その噛みくだいた口中に拡がるニンニクの香りが、なんともいえず…」「大陸では、ニンニクは入れません」「ア、ソ」どうやら大陸餃子は日本餃子とすこし違うようだ。


いつかは彼らと対決しなければならぬと思っていた。彼らとは、ちくわ、かまぼこ、はんぺん、さつま揚げのことである。彼らとは一見、姿形それぞれに違って、さり気なく変装しているが、実はあれは世をあざむく仮の姿、その実態は魚肉練り製品という同族同根の一家なのである。この連中のなかでも、えこひいきを言わしてもらえば、とりわけちくわとさつま揚げが好きなのである。はんぺん、かまぼことなると、なにかこう、黄色人種の中の白人という感じがしてもう一つ親しみがもてない。ちくわとさつま揚げには、朴訥、愚直、日本の田舎、日本の夏、といったような親近感がある。特にかまぼこは、けしからぬとさえ思う。他の連中は、なににも頼らず、自分の力でなんとかやっているのに、かまぼこただひとり、板など敷いておさまりかえっているのである。けしからぬ。板に頼らなければやっていけないのかッ。ちくわを見たまえ。からだの中心に風穴をあけられてさえ、なんとか自分ひとりの力でやっていこうとしているではないか。いってみれば、ちくわは結核を患って肋骨を六本取ってしまったというようなカラダなのである。そあれでもちゃんと、ややヘナヘナはしているがなんとか自立しているではないか。


・丼物が好きである。天丼、かつ丼、親子丼、卵丼!丼の響きがいい。丼=どんぶりとある。たった一字で、ひらがな四文字に相当するのである。たった一字で四文字を養っているのである。相当の大物とみてさしつかえないのではないか。かつ丼、天丼などの場合は、どんぶりまでいわず、どん、で止めてしまう。ぶり、はどこへ行ってしまったのか。といわれても困るが、ぶり、がどこかへ行ってしまってもかつ丼、天丼は平然としている。


・今回はいよいよラーメンである。たしか、カレーのときも、「今回は、いよいよカレーである」という書き出しだったと思うが、ラーメンもやはり「いよいよ」でなければならないのである。これにカツ丼を加えて「いよいよ御三家」と世間ではいわれている。(いわれてないかな)


やっぱり東海林さだおは、天才だった。オススメです。(・∀・)!