10年くらい前から、カラオケ、CD、FMの音がダメになった。かわりに生音、レコード、カセットテープ、AMを好むようになった。「流し」なので、歌を覚えているので、そもそもカラオケに行く必要がないのだ。だって、この世にカラオケが登場する前から「人間カラオケ」やっているんだから。(笑)
さてこの本。わかるなあ。街中や駅のアナウンスのうるささ。耳をふさぎたくなるもんね。(・∀・)
「頭上には電線がとぐろを巻き、街ではスピーカーががなりたてる、ゴミ溜めのような日本。美に敏感なはずの国民が、なぜ醜さに鈍感なのか?客への応対は卑屈で、「奴隷的サービス」に徹する店員たち。その微温的「気配り」や「他人を思いやる心」など、日本人の美徳の裏側に潜むグロテスクな感情を暴き、押し付けがましい「優しさ」に断固として立ち向う。戦う哲学者の反・日本文化論」そのエッセンスを紹介しよう。
たぶん、あまりいないであろう。 だが、この商店街で人びとは毎日買い物をし、 ここを朝夕通過しても、この醜さに吐き気がすることはない。 醜さを告発する市民運動が盛り上がることはない。 ここが問題なのである。 私にとっては驚くべきことにー彼らは街を心地よくしたいのであり 、その結果こういう風景になったのである。「美しい」 ということと「心地よい」ことは違う。 人びとは明大前商店街が美しいと思うことはなくても、 心地よいのだ。 日本のどこにでも見られる商店街の風景は、 日本人の感受性を恐ろしいほどよく表している。
・多田道太郎は、日本の盛り場の原型は縁日だと言っている。 裸電球で照らされ、ヒラヒラ安っぽい原色の物が並ぶ縁日である。 写真をもう一度眺めるとたしかに縁日である。あるいは、 村祭の雰囲気である。商店街のみではない。選挙でも、 お花見でも、大学祭でも、人々が集まるところ、 わが国ではみなこうなる。原色の旗をひらめかせ、轟音を発射し、 食べ物屋が軒を連ねる。
・私は桜の花が大好きなのだが、満開のシーズンになると、 行く気がしなくなる。 桜の名所は枝という枝に商店街の提灯がぶら下げられ、 樹の下にはタコ焼き屋、焼きそば屋、おでん屋の屋台が並び、 各店からスピーカーが轟音を発する、 という人間の体臭で充満した空間になってしまう。 こういうかたちで桜を愛でることが、 日本人の感受性の根幹にあるのだ。
・日本文化のベースには床があり、床の敷かれていない「そと」 は汚れた空間であるが、「うち」は清浄な空間である。 人々は履物を脱いで「うち」に入る。そして、 われわれが大切にするのは「うち」からの風景であり、けっして「 そと」からの風景ではない。家の中から「そと」 がどう見えるかには神経をすり減らすが、家が「そと」 からどう見えるかには無神経である。こうみると、 日本の商店街の外観は恐ろしく猥雑であるが、一歩踏み込むや( 一般に)内部はうってかわってこぎれいなこともうなずける。 地上の商店街の狼藉とは対象的に地下街は磨き上げられたように整 然としている。道路を含めた「そと」は「余り」なのであり、 だから道路には名前がついていないのだ。(とすると、 すべての道路に名前の付いている京都は、やはり「異国」である 。「そと」は見えないところ、気にかからないところ、 いや極端に言えば「無」なのである。
・一般的にわが国の街では、 小さビルに不似合いなほど巨大な広告塔が林立している。 日本人は旗や看板や広告塔などの小物体を公共空間に設置すること に何の抵抗もないのだが、とくに垂れ幕・ 横断幕は大好きのようだ。駅には「駅をきれいにしましょう」 とか「煙草のポイ捨て禁止」 という馬鹿でかい横断幕がかかってる。「これがいちばん汚い」 と私が主張しても、どうしてもわかってくれない。歩道には、 巨大な車が乗り上げており、膨大な数の自転車が停めてあり、 さらに各店の棚がずんずん進出してくる。「そと」はどこまでも「 余り」であるから、 必要に応じてどんどん空間は物で埋められてゆく。
・東北新幹線の東京駅は私にとってまさに地獄である。 各ホームでは「おさがりください!」という放送が続く。 もちろん、あの甲高い鼻声で。列車が入ってくると「下り✕✕号✕ ✕行き、停車する駅は✕✕、✕、✕✕……禁煙車は✕号車、✕ 号車、グリーン車は✕号車……」 という放送がそれと溶け合って轟音で流される。扉が開くと「 ホームと列車のあいだが空いておりますので、ご注意ください!」 という絶叫がたえまなく流れる。胸が苦しくなり、 いや身体全体に鳥肌が立ち、生きた心地がしない。
・日本語では「おのずから」と「みずから」とは、ともに「自( か)らです。そこには「みずから」為したことと「おのずから」 成ったこととが別事ではないという理解が働いています」
・われわれ日本人にとって、 秋葉原と桂離宮は互いに矛盾することなく、 そこにいると同じように居心地がいい。なぜなら、秋葉原は、 人為を加えず欲望のまま自然に形成された場所だからであり、 桂離宮は、人為の極地でありながら、 あたかも人為がないかのように形成された場所だからである。 以上のことから、田んぼや小川ばかりではなく、 あのごたごたした商店街も日本人の「心のふるさと」 なのだと考えることができるであろう。 多くの人風景が心地よいように、頭上には電線がとぐろを巻き、 原色の看板でびっしり埋め尽くされ、 スピーカーがなり立てるあの商店街の光景は心地よいのだ。
・江戸では「…です」も乱暴語とされた。……「…… でございましたそうでございます」これが、 江戸町衆の日常語だった。戦前、デパートの松屋では、 お買い上げのお客さまの帰りぎわに、店員たちに「 ありがとうございます」ではなく、「 ありがたく御礼申し上げます」といわせていたそうだ。
・江戸では初めて会った人に「初めまして」 という挨拶はしなかった。…… ご先祖さま同士が親しかったといった心持ちで相手に接すれば、 初対面の人も遠い親戚のような親近感がわいてくる。町衆たちは「 先祖がお世話になりまして」という言い方をした。
なーるほど。φ(..)メモメモ いいね、こんど初めて会う人に、こういう挨拶をしてみよう。いろいろと考えさせられるなあ。超オススメです。(・∀・)