「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「私とは何か「個人」から「分人」へ」(平野啓一郎)

 

この本、スゴイなー!!!目からウロコとはこのことだなー!「個人」→「分人」という単位に変えるだけで、さまざまな人間関係の課題が解決できそうだっ!!!

 

嫌いな自分を肯定するには?自分らしさはどう生まれるのか?他者との距離をいかに取るか? 恋愛・職場・家族……人間関係に悩むすべての人へ。小説と格闘する中で生まれた、目からウロコの人間観!」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・本書の目的は、人間の基本単位を考え直すことである。「個人」から「分人」へ。分人とは何か?この新しい、個人よりも一回り小さな単位を導入するだけで、世界の見え方は一変する。むしろ問題は、個人という単位の大雑把さが、現代の私たちの生活には、最早対応しきれなくなっていることである。

 

会社で仕事をしているときと、家族と一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか?あるいは、高校時代の友人と久しぶりに飲みに行ったり、恋人と二人きりでイチャついているとき、私たちの口調や表情、態度は、随分と違っているのではないか。

 

・こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて「本当の自分」である。個人を整数の1とするならば、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。

 

分人はすべて「本当の自分」である。私たちは、しかし、そう考えることが出来ず、唯一無二の「本当の自分」という幻想に捕らわれてきたせいで、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた。どこにも実態がないにも拘らず、それを知り、それを探さなければならないと四六時中唆(そそのか)されている。

 

 ・私の世代に最も多く見られた現象が二つあった。引きこもり」「自分探しの旅」である。

 

・色々な人格はあっても、逆説的だが、顔だけは一つしかない。

 

自傷行為は、自己そのものを殺したいわけではない。ただ、自己像(セルフイメージ)」を殺そうとしているのだ。つまり、死にたい願望ではなく、生きたいという願望の現れではないのか。

 

一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これらの分人の集合体である。個人を整数の1だとすると、分人は分数だ。人によって対人関係の数はちがうので、分母は様々である。そして、ここが重要なのだが、相手との関係によって分子も変わってくる。関係の深い相手との分人は大きく、関係の浅い相手の分人は小さい。すべての分人を足すと1になる、とひとまずは考えてもらいたい。

 

分人のネットワークには、中心が存在しない。なぜか?分人は、自分で勝手に生み出す人格ではなく、常に、環境や対人関係の中で形成されるからだ。

 

・私たちは、朝、日が昇って、夕方、日が沈む、という反復的なサイクルを生きながら、身のまわりの他者とも、反復的なコミュニケーションを重ねている。人格とは、その反復を通じて形成される一種のパターンである

 

ロボットと人間の最大の違いは、ロボットはー今のところー分人化できない…である。もし、相手次第で性格まで変わるロボットが登場すれば、私たちはそれを、より人間に近いと感じるだろう。

 

八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。

 

・コミュニケーションが苦手だと思っている人は、その原因を、相手を魅了する話術の不足に求めがちだが、むしろ、相互の分人化の失敗というところから考えてみてはどうか?

 

人との出会いが人生を変えるということは、よく言われるが、それは言い換えるならば、自分が抱えている分人の中で、どういう分人が最も大きくなるか、ということだ

 

貴重な資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。学校での分人がイヤになっても、放課後の自分はうまくいっている。それならば、その放課後の自分を足場にすべきだ。

 

誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体が、あなたの価値となる。

 

・人間の身体は、なるほど、分けられないindividualしかし、人間そのものは、複数の分人に分けられるdividualあなたはその集合体で、相手によって、様々な分人を生きている。

 

部屋で一人で考え事をしている時の自分は、一体誰なのか?分人が、対人間関係ごとに生じるものなら、結局この一人でいる時の自分こそが、「本当の自分」なのではないか?結論からいうとやはりそうではない。私たちは、一人でいる時には、いつも同じ、首尾一貫した自分が考えことをしていると、これまた思い込んでいる。しかし、実のところ、様々な分人を入れ替わり立ち替わり生きながら考え事をしているはである。

 

・分人という単位を採用すると、いったい何が変わるのか。私が最も変わったと実感しているのは、他者に対する見方である自分は、分人の集合体として存在している。それらは、すべて他者との出会いの産物であり、コミュニケーションの結果である。他者がいなければ、私の複数の分人もなっく、つまりは今の私という人間も存在しなかった。

 

・分人が他者との相互作用によって生じる人格である以上、ネガティブな分人は、半分は相手のせいである。裏返せば、ポジティブな分人もまた、他者のお陰なのである。そう思えば相手への感謝の気持ちや謙虚さも芽生える。私たちの人格そのものが他者のお陰なのである。

 

・不幸な分人を抱え込んでいる時には、一種のリセット願望が芽生えてくる。しかし、その時にこそ、私たちは慎重に、消してしまいたい、生きるのを止めたいのは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人だと、意識しなければならない。誤って個人そのものを消したい、生きるのを止めたいと思ってしまえば、取り返しのつかないことになる。

 

「自分探しの旅」は、文字通りに取るとバカげているように感じられるが、この旅は、分人主義的に言い換えるなら、新しい環境、新しい旅を通じて、新しい分人を作ることを目的としている今の自分の分人のラインナップには何かが欠落している。本当に充実した分人がない。従って、それらの総体からなら自分の個性に飽き足らない。実際、海外生活での分人に意外な生き心地を発見して、理想的な構成比率の分人を生きられるようになったということは、祝福されるべきことだ。

 

私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。

 

自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要んな点である。好きな分人が一つずつ増えていくなら、私たちは、その分、自分に肯定的になれる。

 

愛とは「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである

 

片思いというのは、お互いの分人の構成比率が、著しく非対称な状態だ。

 

殺人は、被害者の生命はもちろんのこと、すべての分人を奪い去ってしまうことになる。一人を殺すことは、その人の周辺、さらにその周辺へと無限につながる分人同士のリンクを破壊することになる。

 

そうかあ!「自分探しの旅」ってそういう意味だったんだあ!!!何度も繰り返し読みたくなる本。超オススメです!(・∀・)