「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「無意識の整え方 身体も心も運命もなぜかうまく動き出す30の習慣」(前野隆司)

第一印象のイメージと中身のギャップがあると、惹きつけられるよね。まさにこの本がそうだ!!!タイトルからみて、よくあるノウハウ本かな!?と思ったら、実に奥が深いっ!!!スゴイ!!!長年の疑問が解決したようだ!♪

「著者は子どもの頃からの疑問を科学者になって解明した。それが、「意識は無意識の決定を記憶する装置にすぎない」とする『受動意識仮説』。ならば、無意識をクリーンな状態に整えておけば、心も身体も軽やかに動くはず。その方法について、無意識に関わりの深いエキスパート4名=大リーグのドジャースなども指導する心身統一合氣道会会長の平信一氏、東大卒の気鋭の僧侶・松本紹圭氏、森の中で経営者や子どもたちへのプログラムを実施する株式会社森へ 代表取締役山田博氏、東大病院循環器内科助教の医師・稲葉俊郎氏との対話を通じて著者が探求し、30の方法にまとめて解説」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・わたしたち人間は触ったモノの対して「心地いい」とか「気持ち悪い」といった感情を付随させることがあります。これをロボットにやらせるにはどうしたらいいでしょう。このように、ロボットを研究していると「人間」と「心」の問題がまとわりついてくるのです。
 
・やがてわたしは、ロボットに心を持たせるにはどうしたらいいかを考えるようになりました。この問いは「このロボットには心がある」と定義するためには、何が必要なのかということでもあります。そもそも「心がある」「心がない」の違いはどこにあるのでしょう。そうして2002年、これまでになり、ちょっとおもしろいモデルを思いついたのです。わたしはそれを「受動意識仮説」と呼んでいます。
 
・1983年、カリフォリニア大学サンフランシスコ校の医学部神経生理学のリベット教授が発表したものです。筋肉を動かすための運動神経の指令(無意識)は、心が「動かそう」と意図する能の活動(意識)よりも0.35秒も先だいうことがわかったのです。
 
意識的には、意識が最初に「動かそう」とし、それにしたがって運動の指令(無意識)が出て、指が動くはずですね。ところが実際は、まったく逆だったのです。つまり、わたしたちの行動を本当に決めているのは脳の無意識であり、意識はその決定を約0.35秒後に受け取って「自分が決めた」と記憶(エピソード記憶)しているだけではないか、というものです。川の上流にいるのは意識ではなく、無意識なのです。これを「心の地動説」と表現しています。ピースサインを出そうとした」と思っている瞬間に感じる自由意志のようなものは、本当は存在しない錯覚なのです。
 
「受動意識仮説」ではサーチライトは存在しません。無意識がやってくれたことを、意識はあとづけで受け取って、エピソード記憶するだけなのです。自由意志の力で身体を動かしているというのは勘違いだということになります。
 
・会社に例えると、ワンマン社長が意識。「あれをやれ!」なんて指示を出していますが、実際に会社を切り盛りしているのは現場でがんばっている社員(無意識)たちなんです。能のさまざまな部位にある神経細胞が分担、協力して、どんどん物事を判断し、決定して、指示を出し、先に動かしている。彼らは社長の指示に「はい!」なんて、従順にしたがっているような顔をしているけど、じつは全部先にやっているんです。社長が気づかず、「オレがやったんだよ」と思い込んでいる
 
わたしたちを動かしているのは、無意識ですだとすれば、意識はもっと自然体のままリラックスして、彼ら=無意識に委ねてしまってはどうでしょうか。新しい生き方につながるかもしれません。意識下で「無意識に委ねてしまおう」と意思決定するとき、じつはそれ以前に無意識下で、すでにその意思決定はなされているのです。
 
【無意識対談①×藤平信一(心身統一合氣道会 会長)】
 
(藤平)ちょっとした心の変化で、一体になったりバラバラになったりします。周囲と一体になっているときはベストコンディションのときです。野球でいえば「打とう」という気持ちが強すぎると、氣が通わなくなります。これは選手にとって良くない状態です。
 
相手を倒すことが目的だと、相手に抵抗されてしまいます。もし相手のほうが体格やあ強さが優っていたら、技をかけるのは大変です。ですから、考え方を変えて「大丈夫ですか?」と相手を介助しているような気持ちと体勢で組むんです。「氣を通わせる」状態です。すると、相手と一緒に動くことになる、体格や力の強弱に関係なく、投げたり、倒すことができるんです。
 
・氣の交流が活発な状態を日本語では「元気」といい、滞ると「病気」といいます。これが完全に途絶えた状態が、生き物では「死」です。
 
意識しなければできない技はホンモノではありません。意識しなくても当たり前のこととしてやれるようになるまで繰り返す。そうすることで、習得が可能になります。無意識に入れてあげるんです。(「無意識に入れる?」)
 
・わたしは小さかった頃、靴を脱ぎっぱなしにするクセがありました。こういうときに「何やってるんだ!」と叱ると、反発するか、泣き出すかになるでしょう。しかし先代である父は、何度同じことをしても怒りませんでした。満面の笑みをたたえて、わたしを呼んで「一緒に揃えよう」というんです。父は「毎日意識してやりなさい」と教えるのではなく、わたしの無意識の部分に教え、習慣を変えさせようとしたのだと思います。手間はかかるのですが、トータルでみるとこのほうが効率がよく、確実だと思います。
 
履物を揃えるというのは、履物を自分の足の延長線として見て、脱いだあとまでちゃんと氣を向けましょう、という心構えから来ているのだそうです。日本文化は、下駄・雪駄・草履文化でしたので、足先まで氣が通ってないと脱げてしまいますから、もともと日本人は足先まで氣が通っていたんです。
 
「集中」と「執着」を私たちは勘違いしています。「◯◯に集中してください」というと、そこだけを凝視して、まわりが見えなくなる人がよくいます。これは集中ではなく「執着」と呼んでいる状態です。武道で執着すると間違いなく相手にやられます。「相手の目を見て話しなさい」も同じです。
 
・意識していると、一部分に執着してしまって、周囲とつながらないんです。無意識がつながることで、氣が通うんです。
 
・最近、人間には本来ものすごい能力が備わっているのに、それを意識の働きで、小さく狭めているのではないかという気がしているんです。まだ仮説ですが、意識によって制限されている部分を解放すると、人間は無限といっていいほど、伸びる可能性があるのではないか。合氣道にもそのためのノウハウがあるのではないか。
 
・意識がこんな邪魔をするのは、もしかしたら、女王アリと働きアリが別れているように、持てる能力を制限することで、社会での役割分担をしているのではないかと思うんです。全員が女王になったら困るから、あえて自分を小さくするように、人はできているんじゃないかと。
 
・これまでの人間社会では、それが必要だったのかもしれません。でも、これからの社会は、全員がすごい人になって、世界をまわしたほうがいいんじゃないかと思うんです。みんながもっとポテンシャルを発揮するようになれば、99%くらいの眠っていた能力が開かれるんじゃないかと思うのです。
 

いや〜深いわー!!!すごいわー!!!前半四分の一だけでも大満足!第二弾も紹介しちゃおうかな。超オススメです!(・∀・)