「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「先生はえらい」(内田樹)

いいなあ!このタイトル!シンプル・イズ・ベスト!!!タイトルとは違ってコミュニケーション論だなあ。ワタシの解釈では。哲学的だなあ!(・∀・)
 
 
「教育論というのは世に多くありますが、師弟論というのは、最近少ないですね。というのも、「先生はえらくない」ということがいまの日本ではほとんど常識になっているから。そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・この本書くときに、編集者の方に「どんなことをいま、いちばん中学生や高校生に伝えたいですか?」と訊ねられました。コーヒーをスプーンでくるくるかき回しながらしばらく考えて、こう答えました。「『先生はえらい』かな。」
 
・いまの若い人たちを見ていて、いちばん気の毒なのはえらい先生」に出会っていないということだと私には思えたからです。先生はえらい」と言い切れるような「人生の師」にはまだ出会っていない。私はそう思います。
 
「いい先生」というのはみなさんが出会う前にあらかじめ存在するものではないです。あるいは「万人にとっての、いい先生」というものもまた存在しないと申し上げた方がよろしいでしょうか。「先生運」なんてものはありません。
 
先生はあなたが探し出すのです。自分で。足を棒にして。目を皿にして。先生を求めて長く苦しい旅をした人間だけに、先生と出会うチャンスは訪れます。
 
 
・恋愛というのは「はたはいろいろ言うけれど、私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的j判断の断固なる無視の上にしか成立しないものです。
 
誰も知らないこの先生のすばらしいところを、私だけは知っている、という「誤解」からしか師弟関係は始まりません。
 
・あなたに親友や恋人ができて、その人から「あなたは、むかしどんな子どもだったの?」と訊かれたときに、あなたが語るあなたの子ども時代の話の中には、あなた自身がはじめて思い出すエピソードが含まれています。必ず。それまで、そんな出来事を経験したことさえ忘れていたエピソードを不意に思い出すことがあります。「オチのない」エピソードってありますよね?それが大切なんです。「話に落ちがつけられない」というのは、そのエピソードがどういう意味をもっているのかを説明することあを、あなたがそれまで持っていなかったということなんですから。
 
「相手がいる」ことを想定しないと、何もできない。それが人間です。私たちの話は、つねに聴き手を前提し、その聴き手にどう届くかということを気づかいながら語られます。それを聴く用意のある人間に出会うまで、私たちは自分の「ほんとうに言いたいこと」をことばにすることができません。そういうものなんです。
 
ジャック・ラカン「人間は前未来形で過去を回想する」とうことを言っております。私たちは過去を回想しながら物語るとき、その回想を終えた時点(今はまだ語っている途中なので、それは「未来のある時点」ということになります)において、「完了しているであろうこと」(つまり、私の話を聞き終えた聴き手からの理解や愛や敬意の獲得)をめざして語ります。するどい考え方だと思いませんか?
 
話し始める前に「こういう話をしよう」と予定していたあなたと、語り終えたあなたは、微妙に別人だからです。あなたは聴き手が「聴きたがっている話」を選択的にたどって、いつのまにかこんな話をしてしまったわけです。では、この話を導いたのは「こんな話を聴きたい」と願った聴き手の側の願望なのでしょうか?あなたは話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意していたこと」でも「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」によって創作された話なんです。
 
・奇妙に聞こえるかも知れませんが、この話を最後まで導いたのは、対話している二人の当事者のどちらでもなく、あるいは「合作」というのでもなく、そこに存在しないものなんです。二人の人間がまっすぐ向き合って、相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、そこで話しているのは、二人のうちのどちらでもないものなんです。
 
対話において語っているのは「第三者」です。見知らぬ、しかし、懐かしい言葉。そういうことが口をついて出てくるとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」気分になります。
 
気分のよい対話では、話す方は「言うつもりのなかったこと」を話して「ほんとうに言いたいことを言った」という達成感を覚えます。聴く方は「聴くつもりのなかった話」を聴いて、「前から聴きたかったことを聴いた」という満足感を覚えます。当事者のそれぞれが、そんな欲望を自分が持っていることを知らなかった欲望に気づかされる、という経験です。まさしく、それを経験することが対話の本質なんです。
 
沈黙交易の最初のとき、人間たちはそれにいかなる価値があるのかわからないものを交換しあった。ここが話のかんどころです。知らない部族から贈られてきた、その意味も価値も「わからないもの」を取り組んで、ああでもないこうでもないとわいわい騒ぐことそれ自体がなんだか愉しくて、五万年前のクロマニヨン人たちは交換を始めたのです。だって、想像すると、いかにも愉しそうでしょ?
 
・私たちが会話においていちばんうれしく感じるのは、「もっと話を聞かせて。あなたのことが知りたいから」という促しです。でも、これって要するに、「あなたが何を言っているのか、まだよくわからない」ということでしょう?
 
相手に「君が言いたいことはわかった」と言われると、人間は不愉快になるんです。
 
・私たちがコミュニケーションを先に進めることができるのは、そこに「誤解の幅」「訂正の道」が残されているからです。
 
・「わかる」ことは、コミュニケーションを閉じる危険とつねに背中あわせです。
 
・面接試験をしていて愉しい受験生というのがいます。それは「その場で思いついたこと」をしゃべってくれる人です。語っている受験生も、そのきっかけをつくった試問者も、どちらもその生成に関与しているからです。ある種の「かけがえのなさ」が感じられます。コミュニケーションを拒絶するような「読み上げ」的対応に触れると、それなりに傷つくんです。
 
・ことばと思いがうまく合致しない。その「言いよどみ」「口ごもり」がそのまま表現された文章は「いい文章」であるかどうかは別として、少なくとも「扉が開いた」文章である可能性は高いと思います。
 
人間の定義は「コミュニケーションするもの」ということです。つまり「コミュニケーションしない人間」は人間じゃないということです。コミュニケーションにおいて「正解」というものを決めてしまうと、ほとんどの人間はその存在価値を失って、人間じゃなくなってしまいます。そんなの困りますね。
 
師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たすものであるかを、師は知っているけれど、自分は知らないと弟子が考えているからです
 
その他、「教習所とF-1ドライバー」「村上春樹の「うなぎ説」」「沈黙交易」「貨幣は商品」「交換とサッカー」「大航海時代とアマゾン・ドットコム」「あべこべことば」「聴き手のいないことば(面接試験)」「口ごもる文章」「太宰治の「如是我聞」(心づくし)」「謎の先生」「能楽の『張良』」など。
 
実に深いなあ…。噛み締めたいなあ。超オススメです!(・∀・)