その昔、確か中学生の頃だったと思うが、国語の教科書で霊長類学者の草分け的存在で京都大学名誉教授の今西錦司さんの 文章に感動した記憶がある。ダーウィンの進化論に異を唱えた理論で興奮したことを覚えている。
さてこの本、その今西錦司さんの薫陶を受けた京都大学総長の山極寿一さん。この人のゴリラ関連の本がめちゃめちゃオモシロイ!
「進化の果てで、テクノロジーに疲れ、戦争に倦む。私たちが幸福を掴むためには、あと何が必要なのか。ゴリラ研究の権威による、霊長類視点の文明論。動物の一種としての人間に立ち返り、これからの共同体・国家のあり方を問い直す」そのエッセンスを紹介しよう。
・ゴリラはニホンザルとは全く異なる霊長類だった。 ゴリラの中に私はサルではなく、ヒトを見た。共通先祖の姿、 そして少し道を違えればゴリラのようになっていたかもしれないヒ トの過去が見えるような気がしたのだ。しかも、 ゴリラは人間より大きく、誇りに満ちていて、 威風堂々たる構えがなんとも魅力的だった、出会ったとたん、 私はゴリラに魅了され、心底彼らの仲間になってみたいと思った。
・一頭のゴリラになって、人間世界にもどってきてみると、 人間の動作がなんだかぎこちないものに思えてきた。 二足で歩くのは不安定だし、首が長く、 いつもあちこち見廻しているのは落ち着きがない。なぜ、 ゴリラのように泰然自若としていられないのか。 人間どうしの関わり方もおかしい。 ゴリラは離乳するとさっさと自立するのに、 なぜ人間の親はいつまでも子離れしないのか。 人間はおせっかいで、困っている人を見ると助けようとする。 それなのに、なぜ寄ってたかって弱い者いじめをするのか。 ゴリラはいつも同じ集団でまとまっているのに、 人間はなぜ毎日複数の集団や組織を渡り歩けるのか。 それまで当たり前だっと思っていた人間の暮らしが、 とても不思議なものに見えてきたのである。
・人間以外の動物にとって、生きることは食べることである。 しかし、それを実現するには、いつ、どこで、何を、だれと、 どうやって食べるか、 という5つの課題を乗り越えなければならない。 普段単独生活をしているクマやカモシカのような動物は、 なわばりをつくって他者の侵入を防いだり、 他者と出会わないようにして餌資源を確保したりすればいい。 しかし、群れをつくる動物はつねにこの問題に直面する。
・人間の食事には他者といい関係をつくるために食事の場や調度、 食器、メニュー、調理法、服装からマナーにいたるまで、 多様な技術が考案されてきたといっても過言ではない。 どの文化でも社交の場として食事を機能させるために、 莫大な時間と金を消費してきたのである。 それは効率化とはむしろ逆行する特徴を持っている。
・サルの食事は人間とは正反対である。群れで暮らすサルたちは、 食べるときは分散して、 なるべく仲間と顔を合わせないようにする。 数や場所が限られている自然の食物を食べようとすると、 どうしても仲間とはち合わせをしてけんかになる。 強いサルは食物を独占し、他のサルにそれを分けることはない。 サルの社会では、食物を独占し、 他のサルにそれを分けることはない。
・人間にはサルと違うところが二つある。 まず人間は食材を調理して食べるという点だ。もう一つは、 人間が食事を人と人とをつなぐコミュニケーションとして利用して きたことだ。
・チンパンジーと同じようにゴリラも、 食物の分配行動があることが知られているから、 ヒト科の類人猿はすべて、 おとなの間で食物が分配されるというこ、 霊長類にはまれな特徴を持っていることがわかる。 人間はその特徴を受け継ぎ、 さらに食物を用いて互いの関係を調整する社会技術を発達させたの だ。食事は、人間どうしが無理なく対面できる貴重な機会である。
・ 顔の表情や目の動きをモニターしながら相手の心の動きを知る能力 は、人間が生まれつきもっているもので習得する必要がない。 しかも、目の色は違っていても、すべての人間に白目がある。 ということは白目は人間にとって古い特徴でありながら、 チンパンジーとの共通祖先と分かれてから獲得した特徴だというこ とだ。対面して相手の目の動きを追いながら同調し、 共感する間柄をつくることができるのが、 人間に特有な能力なのだ。
・現代の私たちは、 一日の大半をパソコンやスマホに向かって文字とつき合いながら過 ごしている。もっと、人と顔を合わせ、話し、食べ、遊び、 歌うことに使うべきなのではないだろうか。 人々の確かな信頼にもとづく生きた時間をとりもどしたいと切に思 う。
・奇妙なことに、サルも類人猿も一度群れを離れると、 めったに元の群れへもどることはない。 それは群れにもどろうとすると、 元の群れの仲間たちから攻撃を受けて追い出されてしまうからであ る。 いったん群れから離れたゴリラのオスが元いた群れと接触すると、 父親や兄弟のオスから強い反発を受けるし、 チンパンジーのオスは数週間姿を消しただけで、 元の仲間から一斉攻撃を受けて殺されることがある。 サルや類人猿の社会では、不在は社会的な死を意味する。 不在の後、元の社会関係を修復することは至難の業なのである。 サルや類人猿と比べると、 人間はなんと許容に満ちた社会をつくってきたことか。 私たちは日々さまざまな集団を渡り歩いているし、 数十年の不在もまるでなかったように受け入れてもうらことができ る。
・ただ、 それはおそらく最近の人間社会がやっと到達できる仕組みなのでは ないだろうか。 日本も近年まで住んでいる土地を離れるにはお上の許可が必要だっ たし、 各都市には関所が設けられて出入りが厳しく監視されていた。 人間には元の関係を今の関係に反映させる能力がある。 言葉によって不在の仲間のうわさをし、 まるでそこにいるかのような扱いをすることができるのだ。 ところが、 昨今の人間社会は不在を許容できなくなっているように私は感じる 。常に顔を合わせていないと仲間はずれにされたり、 スマホをオンにして仲間からの問いかけに即座に応じなければ、 友だちから拒否されたりするような閉鎖的な感性が育ち始めている 。人間の信頼が過去ではなく、 現在の関係によってしか得られないという極めて短絡的な思考が蔓 延しているような気がする。
・それは人間の歴史に逆行し、 サルの社会にもどることだと私は思う。不在を許容し、 自在に集団を渡り歩けるからこそ、 人間は複雑に分化した社会を築くことができたはずなのだ。 IT時代の信頼関係のつくり方を、 過去を参照しながらもう一度考え直すべきではないだろうか。
ちょっと!ワタシも本だけでゴリラに夢中になっています!オススメです!(・∀・)♪