「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「僕はいかにして指揮者になったのか」(佐渡裕)

この本はスゴイなあ!クラシック音楽のことをほとんど知らないワタシでさえ、この本の内容と指揮者の世界に魅了されてしまった!!!これは高木善之さんの『オーケストラ指揮法』以来だろうなあ!!!(・∀・)
 
「雑草」から頂点へ。世界最高峰のオーケストラ、ベルリン・フィルの指揮台に。
夢を追うすべての人を励ます「マエストロ佐渡の若き日の軌跡。
「大人になったらベルリン・フィルの指揮者になる」──小学校の卒業文集に書いた夢を、佐渡裕はついに現実のものとする。指揮者としての正式な教育を受けていない自称「音楽界の雑草」が、なぜ巨匠バーンスタインに可愛がられることになったのか。「ライフ・キャン・ビー・ビューティフルや! 」という師の言葉を胸に、世界中の名門オーケストラで指揮棒を振る男の人生讃歌」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・ごく稀に、とんでもない演奏に出会うことがある。奇蹟が起きたとしか言いようがないような“凄い瞬間”が訪れることがあるのだ。こういう演奏会では、指揮者が最後の指揮棒を振り下ろしたとき、堰を切ったようにブラヴォーの嵐が巻き起こり、いつまでも止まない。
 
プッチーニのオペラ(蝶々夫人の指揮をしたときのことである。蝶々夫人が『ある晴れた日に』のアリア(劇的な展開の中で、際立った感情を表現する伴奏付きの独唱)を絶唱した直後、僕はまるで金縛りにあったように、まるで、蝶々夫人が僕に取り憑いたかのようであった。
 
モーツアルトが天才だと言われるのは、明るい曲を書いても、その中に、とてつもない哀しさが秘められていることにあると思うが、それを見事に表現し、心の奥底にまで響かせたアリシアさん(当時70歳のピアニスト)は素晴らしいと思った。僕が経験した中で、最も美しい瞬間だった。彼女はそのとき、モーツァルトになっていたのではないだろうか。そこには人間の力を超えた何かが働いているようにしか思えない。音楽の神様がいて、何かしら力を与えてくださったのではないかと思えるのだ。
 
僕の場合、演奏会をすると、決まって体重が3キロは落ちてしまう。それだけ、一回のステージで大量の汗をかくのだ。帰りの衣装ケースも、流した汗のズシリと重くなる。
 

・決してパフォーマンスでグルグル腕をマワシたり、式台の上で飛び跳ねているわけではない。そのときは、とにかくその音が欲しいがために、また引き出したいがために、そうしているのである。人にどう見られるかということより、自分の音楽を表現しようとすると、自然とそうなるのだ。汗が吹き出るほどの怒りや哀しみを発散し、ぶつける。そこには、どこまで悲しい思いをしたか、美しいものを美しいと思ったかという心が表現される。拳を突き上げようが、飛び跳ねようが、たとえ指揮者がステージから落ちてしまったとしてもー。欲しい音のためなら、僕は素っ裸になってもいいとさえ思っている。
 
・パリでスティービー・ワンダーエルトン・ジョンとテレビ・ショーに出演する機会があり、彼らの語りや演奏を真近で見、聴き、そして感動した。彼らは前身で音楽を表現していたというより、生き方そのものが音楽だった音を通して彼らの生命を見せてくれたように思う。クラシックの演奏者も同じ。100人もの生命力で音を作り上げるのである。
 
ヴェートーヴェンの何が凄いのかと言えば、耳が聞こえないハンディをものともせず作曲したこと』だと教えられる。確かに、それも凄いことではあろう。たが、本当は、苦しみや哀しみが音になって迫ってくるから凄いのである。
 
もしあなたがある人を愛したなら、マーラーの《交響曲第五番アダジェット》を聴いてみてほしい(もちろんバーンスタインで)。これを聴いたら、あなたは自分の生命を懸けてでもその人を愛することになるだろう
 
「音楽はすべてが創造です。それはあなた方の体験の中で、最も神秘的な、そして最も深く心を振り動かすものの一つです」レナード・バーンスタイン
 
一番大切なのは、どれだけその人が音楽を愛しているかということであり、また、音楽をどう感じるかである。また音楽を創る喜びを、指揮者という立場でどう表現できるかということだと思っている。日本でアマチュア相手に指揮をしていた僕が、また正式に指揮教育も受けず、どこの音楽大学の学閥にも属さない雑草の僕が、バーンスタイン小澤征爾のもとに飛び込むことができた。このちょっと変わった経緯を通して、クラシック音楽の魅力を見つけていただけたらと思っている。
 
・初めて会ったおじさんに『君は指揮者か?』。「僕は音楽のことは全然わからない。でも指揮というのは、どうも音楽の世界のことだけではないみたいだ。人間がどうあるべきかを勉強しなければいけないと言っている。君の後ろにいる人が、ですよ。その人は、作曲もちゃんと勉強し、作曲家のことも勉強しなければならないと言っている。音楽だけではなく、絵も見なければならないし、本も読まなければならない。いろんなことを知っている人が本当にいい指揮者になれると言っている」
 
・小澤先生は、楽屋に入ってきて「あんた、面白いっすよ」と勇気づけてくれたのである。小さいときから憧れていた“世界のオザワ”にそう言われ、今度は感激で胸がいっぱいになった。
 
・「君の書類には、僕らはまったく興味がなかった。誰も君のことを知らなかったし、履歴書を見ても、みんなが知っているようなことは一つも書かれていなかったからね。それで、君の書類はゴミ箱に捨てられたんだ。でも、君はビデオを送ってきた、家に持ち帰って見たら、別の意味でこいつは面白い!?”と思ったんだよ。それで、オーディションの招待状を送ったというわけさ」
 
バーンスタインは、僕が指揮を終えるやいなや、突然「シブイ!と叫んだ。じれったそうに「シブイ」「シブイ」と同じ言葉を繰り返した。「さあ、握手をしよう」と、僕に向かって手を差し出してきた。僕はバーンスタインに会えたことだけでも心臓が爆裂するほど緊張するほど緊張していた上に、世界の巨匠と面と向かっていることでさらに緊張し、窒息死する寸前だった。かなり長い時間が経ったように感じた。二人の右手が近づくにつれて、僕の手は、バーンスタインの手から熱いオーラのようなものが放射されてくるのを感じ取った。そして指先が触れた瞬間、前身に何万ボルトもの電流が走ったかのような衝撃を感じたのだ。
 
・「お前の顔は、能の面にそっくりや。能の面ちゅーのは、音楽や動作などのあり方によって変化するもんや同じ顔をしていながら、まったく違う表情に見えることがある。それだけ何か力を秘めてるんやな。今の握手も能と同じで、見た目には静かな動きやのに、そこには膨大なエネルギーが秘められてる。オレの手は、確かにサドの発する熱を感じた。こうした特別な能力を、日本人は生まれつき持ってるんや」
 
・僕にとっては、目から鱗が落ちるような話だった。僕は、クラシック音楽に携わる者として日本人として生まれたことを悔やんでいたのである。ところが、日本人として解釈し、表現すればいいのだということに気がついたのである。と同時に、日本人であることに自信がついた。僕は僕でしかない。佐渡裕は日本人であり、カラヤンクライバーではない。また小澤征爾でもないし、バーンスタインでもない。佐渡裕以上のものでも、それ以下のものでもないのだと。
 
「オレはジャガイモを見つけた。まだ泥がいっぱいついていて、すごく丁寧に泥を落とさなければならない。でも、泥を落としたときには、みんなの大事な食べ物になる」
 
・小澤先生「バーンスタインが、あなたのことを天才だと言ってますよ。よかったですね。でもバーンスタインは、“ユタカは、自分が棒を振ることで成功するのか、失敗するのいかということに関してすごく敏感になってる。それはいいことでもあり、悪いことでもある。失敗を恐れず、音楽のために全身全霊を捧げられる指揮者にならなあかん”って言ってましたよ」
 
・僕はどこの学園にも属さず、自分流で指揮をしてきた“超雑草”である。そんな僕に自信をつけてくれるかのように、小澤先生は、オーケストラの事務局の人たちに「オレが見つけたんだ、オレが見つけた才能なんだ。だから、みんなは絶対、こいつが思うよう生きていけるようにしてやらなきゃいけないよ」と言ってくれているのだ。
 
・音楽だけでなく、芸術に携わる人は、できるだけいい空間で生活をした方がいいというのが僕の考え方である。特に指揮者は、譜面を開いて自分の音楽を創り出す作業が、ほとんど家の中で行われるため、その空間が窮屈に感じたり、気が滅入るような物で囲まれていたのでは、決していい仕事はできないと思っている。
 
・音楽は、野球の試合でホームランが出て、一瞬にして一点が入るというような世界ではない。音楽が好きかどうか、音楽を愛しているかどうかが一番大切なのに、そういうことをほとんど無視するような行為が、コンクールやオーディションの類だからだ。
 
・「なんで、お前はそんな腕の振り方をするんや。そこは空中にあるエネルギーを掴まなあかんのや!」「ここはは、この部屋からみんなを大宇宙に連れて行かなあかん。そういう表現をしろ」「空中の高いところにあるものを掴め!ただ上から下に振り下ろすんやない。そんな音楽はない」「ほーら、このメロディ、美しい女やぞ。抱きまくれ
 
・日本の指揮者やオーケストラの中には、音を完璧に“合わせる”という意識が先立ってしまい、音楽そのものを楽しもうという気持ちが感じられないことが少なくない。しかし、そこに音楽を愛する心、音楽をする喜びが伴っていなければ、まったく無意味な演奏会になってしまうのだ。僕は、たとえ失敗したとそても、一発の音に心を込めて演奏してくれる、また込められる演奏家が、本物の音楽家だと思うし、指揮者もまた、一つの振りに心を込めてこそ、本物の指揮者なのだと思う。
 
・リハーサルで、ある演奏家から「今日のベートーヴェンを、お前はベートーヴェンの墓の前で振れるか」と言われたことがあった。僕は「僕のベートーベンはこれや」と思っていたから「できます」と答えた。
 
・指揮者にとって必要不可欠である、オーケストラを動かす“説得力”、また聴衆を魅了する“吸引力”となると、そう簡単に身につけられるものではない。知識や技術は当然必要であるが、指揮台に立ったときには、そうしたことよりも、音楽を心と体で奏で、「テレパシー」というか、“気”のようなものを発していくことができるかどうかの方が、もっと重要なのである。
 
・僕は、指揮者というのは時計のようなものだと思っている。時計はどれも皆、正確に時を刻むという点では共通しているが、機能性を追求しているか、または豪華さを追求しているかで、一つひとつ違う。指揮者も同じで、ある意味で正確である必要はある。しかし時計の本質は、正確に時を刻むことにあるのではない。それは当たり前のことで、本来の価値は、時を刻んできたという歴史にあるのではないかと思う。居間に飾られている振り子時計は、たとえ壊れても、そこに繰り広げられてきた家族の歴史や喜怒哀楽が塗り込められているから、捨てられることがないのだ。
 
・愛着のある時計は「この時計はよく5分進むんや」と言いながら持ち続け、なかなか手放さない。それと同じように、指揮者も、オーケストラや聴衆に喜ばれ、愛される指揮者でありたいとうのが第一で、その上に、できれば正確で品格があり、しかも豪華であればなおいいと思う
 
ブザンソン国際指揮者コンクール」のエピソード、「出光音楽賞指揮者賞選考会での岩城宏之」はスゴイなあ。スゴイ世界だなあ。
 
ジャングル、じゃなくてジャンルはまったく違うけど、音楽の世界ってスゴイなあ!!!ワタシの音楽からワタシの人生が伝わっているのだろうか!?超オススメです!(・∀・)