「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)

 

著者の國分功一郎さんのこの本は衝撃的だったなあ!「中動態」というのがあったとはオドロキだったよね−!♪

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そして、この本は、テーマが「暇」と「退屈」だよー!♪ これが実に深いっ!

 

暇とは何か。人間はいつから退屈しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、1930年幸福論』に、「いまの西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。また共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるから
 
・使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば、そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に、そうしたすばらしい状況にいない人々、打ち込むべき仕事を持たぬ人々は「不幸」であるかもしれないしかし、何かおかしくないだろうか?本当にそれでいいのだろうか?
 
・もしラッセルの言うことが正しいのなら、これはなんとばかばかしいことであろうか。人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら人が逆に不幸になる。それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。豊かさなど目指さず、惨めな生活を続けさせておけばいい。何かおかしいのではないか?
 
・国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕がうまれる。その余裕にはすくなくとも二つの意味がある。一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでゆくと、人は行きていくための労働にすべての時間を割く必要がなくなる。そして、何もしなくてよい時間、すなわち暇を得る。では、富んだ国の人たちはその余裕を何に使って来たのだろうか?そして何に使っているのだろうか?
 
・「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている」という答えが返ってきそうである。では、その「好きなこと」とは何か?やりたくてもできなかったことはいったい何だったのか?いったいどれだけの人が自分の「好きなこと」を断定できるだろうか?
 
・「好きなこと」という表現から「趣味」という言葉を思いつく人も多いだろう。趣味とは何だろう?いまでは「趣味」をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。カタログから「趣味」を選んでもらえば、必要な道具が安くすぐに手に入ると宣伝する。さてカタログからそんな「その人の感覚のあり方」を選ぶとはいったいどういうことなのか?
 
現代人は自分が何をしたいのかを自分を意識することができなくなってしまっている広告やセールスマンの言葉によって組み立てられてはじめて自分の欲望がはっきりするのだ。19世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。
 
・問題はこうなる。そもそも私たちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなどもっていたのか?
 
・戦士国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのかわからない。そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の「暇が搾取」されているなぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?こうして暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れる。暇と退屈の倫理学が問いたいのはこの問いである。
 
パスカルは、「退屈についての最初の偉大な理論家」である。「生きるために十分な食い扶持(ぶち)をもっている人なら、それで満足していればいい。でもおろかな人間は、それに満足して部屋でゆっくりしていることができない。だからわざわか社交に出かけてストレスをため、賭け事に興じてカネを失う。おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追い求めているもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる」。
 
 
ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではない。狩りとは買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを追いかけて一日中駆けずり回ることである。人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行くのである。
 
・「賭け事をやらないという条件つきで、退屈せずに日々を過ごしている人がいるとしよう。賭け事をやらないという条件つきで、毎朝、彼が一日にもうけられる分だけのカネを彼にやってみたまえ。そうすれば、君は彼を不幸にすることになる」。当然だ。毎日賭け事をしている人はもうけを欲しているのではないのだから。(「欲望の対象」と「欲望の原因」の区別
 
パスカル「気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分が幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要がある」のである。
 
・気晴らしを巡る考察の末に現れるパスカルの解決策とは何か?人間のみじめな運命に対するパスカルの解決策とは何か?拍子抜けするかもしれないが、それは神への信仰である。神なき人間のみじめ」「神とともにある人間の至福」と言う。
 
・退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる。苦しむことはもちろん苦しい。しかし、自分を行為に駆り立ててくれる動機がないこと、それはもっと苦しいのだ。何をしてよいのか分からないというこの退屈の苦しみ。
 
ラッセルの退屈論「退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である
 
幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である。ならば問題は、いかにして楽しみ・快楽を得るかではない。いかにして楽しみ・快楽をもとめることができるようになるか、である。
 
パスカル「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋のなかに静かに休んでいられないことから起こるのだ」
 
 
「定住革命」(西田正規)「そうじ革命・ゴミ革命・トイレ革命」「暇と退屈の経済史」「暇と退屈の哲学」「人間はいつから退屈しているのか?」「なぜ“ひまじん"が尊敬されてきたのか?」など。
 
これは深いなあ!國分功一郎さん、オモシロすぎるわー!全作品読もう!超オススメです。