うーん……この本、すごいなあ……。こんな世界があったのか……これを知らないで生きてきたのか……。能動態でもなく受動態でもなく「中動態」かあ!!!Σ(゚Д゚)!!!
確かに自分のことを考えるとそうかも。今の仕事、飲食関連、人前で話すこと、歌うことって、自分の意志ももちろんあったが、なぜか自然の流れというか何かのチカラが働いて導かれるように今の現在がある、といった方がなんとなく腑に落ちる。そんなことってあるよね!?(・_・)
「自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」
――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか?若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考」そのエッセンスを紹介しよう。
・私は毎日さまざまなことをしている。 たえず何ごとかをなしている。だが、 私が何ごとかをなすとはいったいどういうことだろうか? どんな場合に、「私が何ごとかをなす」と言えるのだろうか? たとえば、私が「何ごとかをさせられている」のではなく、「 何ごとかをなしている」と言いうるのかはどういう場合か? そこにはいかなる条件が必要であるのか?言い換えれば、 私が何ごとかをなすことの成立要件とは何か? どうすれば私は何ごとかをなすことができるのか?いや、 問いはもっと遡りうる。そもそも、 私は何ごとかをなすことができるのか?
・歩くということは、私は「歩こう」という意志をもって、 この歩行なる行為を自分で遂行しているように思える。しかし、 事はそう単純ではない。歩く動作は人体の全身にかかわっている。 人体には200以上の骨、100以上の関節、 約400の骨格筋がある。 それらがきわめて繊細な連携プレーを行うことによってはじめて歩 く動作が可能になるわけだが、 私はそうした複雑な人体の機構を自分で動かそうと思って動かして いるわけではない。実際、あまりに複雑な人体の機構を、 意識という一つの司令塔からコントロールすることは不可能であり 、身体の各部は意識からの司令を待たず、 各部で自動的に連絡をとりあって複雑な連携をこなしていることが 知られている。
・また厳密に考えれば、 歩くときに足下でまったく同じ条件が繰り返されるということはあ りえないのであって、 踏み出された一歩一歩が踏みしめる場所は一つ一つ違う。 したがって、歩行する身体は、 毎度毎度異なる外敵条件にも対応しなければならない。
・私は行為していても、 自分で自分の身体をどう動かしているのか、 明瞭に意識しているわけではない。したがって、 どう動かすのかを、明瞭な意識をもって選んでいるわけでもない。 さらに「歩こう」 という意志が行為の最初にあるかどうかも疑わしい。
・想いに耽(ふけ)るとき、 私は心のなかでさまざまな想念が自動的に展開したり、 過去の場面が回想として現れ出たりするのを感じるが、 そのプロセスは私の思い通りにはならない。 意志は思いに耽るプロセスを操作していない。
・また、謝罪を求められたときはどうだろうか?たしかに私は「 謝ります」と言う。しかし、実際には、私が謝るのではない。 私のなかに、私の心のなかに、 謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。
・能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」 かに配分することを求める。しかし、こう考えてみると、 この区別は非常に不便で不正確なものだ。それにもかかわらず、 われわれはこの区別を使っている。 そしてそれを使わざるを得ない。どうしてなのだろうか?
・意志は物事を意識していなければならない。つまり、 自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、 意志はそうして意識された物事からは独立していなければならない 。すなわち自発的でなければならない。 この矛盾をどう考えたらいいだろうか?
・人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、 責任あるものと見なしてよりと判断されたときに、 能動的であったと解釈されるということである。 アルコール依存症はどうであろうか? アルコール依存症に陥ったことの責任は本人にあるのだろうか? その人がアルコールを過剰摂取しはじめたのは、 何か理由があってのことである。一言でいえば、 何か耐えがたいものを抱えていたがために、 アルコールによってそれに対処したのである。その意味では、 アルコール依存症者がアルコールの過剰摂取を自らの意志で能動的 に選択したのだと言うのは難しいだろう。では殺人や性犯罪など、 他人を直接に害する行為に話が及んだらどうか?
・フランスの言語学者バンヴェニストは、かつて、 能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在していて、 これが能動態と対立していたというのである。 この事実はそれをはじめて知った者にとっては驚くべきものである 。中動態が生き残っている世界、 中動態の世界とはいかなるものか? ここで古代ギリシャにおける文法研究の歴史へと向かわなければな らない。
・アレントによれば、 ギリシア人たちは意志という考え方を知らない。 彼らは意志に相当する言葉すら持たなかった。 ギリシアの大哲学者アリストテレスの哲学には、 意志の概念が欠けている。これは驚くべき事実である。
哲学的な内容が含まれているので途中、ちょっとムズカシイけど、人間の精神世界の進化がここに隠されているかも。再読したい本です。超オススメです。(・∀・)