「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「文化復興1945年 娯楽から始まる戦後史」(中川右介)

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中川右介さんの本ってオモシロイなあ!着眼点というか切り口がユニークで鋭いっ!戦後って娯楽からスタートしたのかあ!意外だあ!(・∀・)
 
 
「明日が分からない不安の日々、多くの人が飢えていた。だからこそ、誰もが「娯楽」を必要とした―-。1945年8月、大都市のほとんどが焦土と化していた。映画、演劇、音楽、出版、スポーツなど、文化の担い手たちは、どう再起し、娯楽産業をいかに復興させていったか?12月31日まで、著名人たちの闘いを克明に描く!黒澤明木下恵介長谷川一夫原節子杉村春子古関裕而双葉山美空ひばり-―「不安な時代」の挑戦者たちの物語」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
昭和天皇がラジオで敗戦を伝えた1945年8月15日から一週間、劇場や映画館は自主的に休業した。逆に言えば、戦争に負けようとしていたなか、8月14日まで劇場や映画館は営業していたのである。そして一週間後の22日に映画館は営業を再開した。
9月になると、焼け残っていた劇場では演劇、バラエティーショーの公演が始まり、11月には大相撲が16日に、プロ野球の東西対抗試合が23日に開かれた。
 
敗戦直後の東京はあたり一面が焼け野原で、人びとは住む家もなければ食べるものもなく、茫然自失となっていたーそんなイメージがあるが、映画館や劇場へ出かけた人も、それなりにいたのだ。もちろん大多数の人は明日のことも分からぬなか、不安と飢えと貧困のなかにいたが、主要産業よりも先に、映画、演劇、音楽、スポーツといった娯楽産業は復興へ歩みだし、戦後初の◯◯」の多くが1945年のうちに行われていた。
 
1945年にすべてを喪いかけた文化人・藝術家・スポーツ人たちが、何を考え、どう行動し、どうやって文化・藝術を再興させていったかを、戦後最大の文化・藝術の危機にある現在、振り返ってみたい。
 
・12月31日の夜10時20分、『紅白音楽試合』が放送された。紅白歌合戦』の前身にあたるもので、いわば第0回となる。最初の三回は正月の特別番組として放送された、その年限りの企画だったのだ。これを大晦日に移して劇場を借りて観客も入れて放送されるようになったのは、第四回からとなる。「歌」ではなく「音楽」で、「合戦」ではなく「試合」であり、51年までの間に空白もあるので「第一回」とはされなかったようだ。GHQが求める日本の民主化のなかでも最も単純にして、最も困難でいまだ実現したとは言えない「男女平等」思想が、この番組の根底にあった。
 
・大晦日の夜、兵庫県宝塚に住むその青年は一睡もできなかった。明日、元日の新聞に彼が描いたマンガが掲載されることになっていたのだ朝になったら駅まで行って新聞を買おうー青年はそう考えていた。青年は医者になるための勉強をしていたが、マンガ家になりたいとも考えていた。出版のあてもなく何千枚ものマンガを描いており、友達に見せていた。それは従来の「漫画」とは異なる、映画にも小説にも匹敵するストーリー性のあるもので、友人たちのあいだでは好評だった。
 
載っていたのは、予告記事だった。次号からマァチャンの日記帳』が連載されるとあり、編集部名義で作者の紹介文が載っていた。
 
〈みなさんと同じクリクリ坊主で、19歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大醫學専門部に通學してお醫者さんになる勉強をしてゐられますが、小さいときからまん畫が大好きで、國民学校二年生の時からいろいろのまん畫をかいて、たのしんでゐられました。あまり上手なので、みなさんのために、れんさいすることにしました。ほがらかなマァチャンをかはいがつてあげてください〉マンガの神様」手塚治虫のデビューである。
 

意外や意外!戦後のイメージが変わるなあ!中川右介さんの本、全作読んでみよ!オススメです。(・∀・)

 

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