「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「力道山の真実」(大下英治)

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ワタシは昭和39年生まれ。力道山が亡くなったのが、その前年の38年なので、ナマの力道山を見ていない。映像で見たり、エピソードを聞くと、壮絶なヒトだったんだろうねえ。木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也もすごかったよね〜!(・∀・)
 
 さて、この本。戦後最強のヒ−ロ−の光と陰。敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男、力道山。大相撲からプロレス転向に至る人知れぬ苦悩。隠された出生の真相。秘技・空手チョップ誕生と大山倍達の関係。愛弟子馬場・猪木に対するねじれた愛情。そして、刺殺実行犯が証言する力道山最期の瞬間」とは……。栄光の道のりの陰で絶えず崖っぷちを意識していた男の苦闘を活写する」そのエッセンスを紹介しよう。(「永遠の力道山改題)
 
力道山の口癖。「頼る者がなくたって、やる気さえあれば、やれないことなどあるものか」「人間、裸で生れてきたんだから、わしは一生、裸で勝負する」「威張るやつと意気地なしが、大嫌いだ。死ぬまで人間、生存競争なんだからな。男と生れたら、とにかく勝たなくちゃ」一発入魂、全身全霊をかけた空手チョップ一閃、力道山は戦後を拓き、新しい時代の幕を切って落としたのであった。
 
・昭和27年2月3日、力道山はプロレス修行のため、トレーナー沖識名の待つハワイへ、単身渡って行った。必殺空手チョップは、そのハワイで生まれた。
 
「淳(芳の里 淳三)、こうやって、食うんだ!」コップを手にした力道山は、円に沿いながらぐるぐるとまわし、見るまに齧っていく。ガラスが細かく砕け鈍い音がする。すべて口のなかに入れてしまうと、まるでいくつもの飴のいっぺんに噛み砕くようにして飲み込んでしまった。芳の里も、なんでこんなことをしなければならぬのかと思いながら、こんちくしょうと呑みこんだ。それから十日ほど、ガラスの粉が砂のように口の中に残った。
 
常識では考えられぬことを人に強い、この野郎と思わせて相手の闘争心をかきたてる。返す力で、おのれに対しては、血走った相手に挑戦状を叩きつけられたときのようなどん詰まりに追いこんで、火と燃えあがらせた。そうやって、張りつめに張りつめた闘争心を、翌日の大一番で爆発させたのである。力道山は、まさに修羅の男であった。
 
おのれを傷つけ、他人を挑発し、それによってふたたびおのれを奮い立たせる所作は、まるで勝負の世界に棲む魔にとりつかれ、自分の顔を思わず掻きむしってしまう自家中毒患者のようでさえあった力道山は、勝ちつづけなければならなかった。勝負への執着は、人なみはずれていた。
 
力道山は、肺ジストマと診断され元気になるまで八年はかかる」といわれ、入院を余儀なくされた。薬は日本にはなく特効薬は、アメリカからとりよせなければならなかった。二ヶ月近くの入院で、少しずつ体力は回復していった。ところが、いざ退院となったとき、その費用は莫大なものとなっていた。入院費用、薬代、注射代など、とても個人で払える金額ではなかった。親方に相談してみても、協会に相談して、知らぬ顔を決めこまれた。仕方なく、自慢のオートバイを売り払い、さらに家まで売り払った。それでも、足りなかった。泣きついたのは、出羽海部屋の有力後援者であった。小沢という人物だった。
 
・「プロレスに出会った力道山は、水を得た魚のようでした相撲から離れ、それでも格闘技への未練が断ちがたい。ようやく、これだと思ったのが、プロレスだったんですよね。まったく水を得た魚でしたよ。天性の格闘家だったんですね」
 
・一介の町工場ほどの規模でしかなかった八欧(やおう)電機は、プロレス中継によって、テレビ受像機部門では、最大手の早川電機、松下電器について堂々の三位に急成長をとげていた。力道山ミスター・ゼネラル”として前面に押し立てて売り出したゼネラル・ブランドのテレビ受像機は、飛ぶように売れたのである。
 
力道山のは、プロレスはいかに観客に見せていくかということを知りぬいた名演出であった。リングアナウンサー、レフェリーをつとめた小松敏雄は、試合中つねに力道山が時間を気にしていたことをおぼえている。テレビ中継のときは、なおさら。放送時間が終わりに近づいてくると、レフェリーの小松に訊いてきた。「おい、あと何分だ」「あと十分」と答えると、力道山「よし」といって、試合を盛りあげにかかった。そうして、放送終了まぎわに相手をフォールしてみせた。ときによっては、わざと放送時間内に決着をつけないときもあった。テレビ観戦のひとびとの関心を煽って、現場に足を向けさせるためであった。
 
・どんなに時代が進んでも、最低の入場料である300円だけは、変えようとしなかった。「この300円は、絶対に上げるなよ。貧乏な人間が、いつでも来れるようにしておけ。プロレスは、金持ちも貧乏人も、みんないっしょだに楽しんでもらうんだ」力道山は、つねにそういっていた。
 
・借金もふえた。同時に事業に精出すあまり、レーニングがおろそかになり、試合でも精彩を欠くようになった。タッグマッチが多くなった。自分はあまり闘わなくなった。闘っても、これまでの技のきれがなくなった。それもそのはずだった。税金と借金に追われ、眠れない日々がつづく。それでも自分を待っているファンがいると思うと、試合を休むわけにはいかない。睡眠薬を常用しはじめた。それも大量に飲まなければ、鍛えあげた肉体にはきかなかった。小松敏雄が打ち明ける。「ともかく睡眠薬が切れてくると、ひどい状態になったんです。巡業先で朝をむかえる。睡眠薬がきいているので、なかなか起きてこない。ようやく起きあがったのはいいけれども、睡眠薬がきれかけている。そのとき、力道山は酔っぱらったようになるんです。それで宿舎で暴れはじめる」手のつけようがなかった。自律神経をめざめさせるために、興奮剤のようなものを飲んでいた。
 
・聖路加病院から外科医が手術の執刀のため、やって来た。力道山は、いざ手術となると、外科医に懇願した。あまり大きく、切らないでください。大きく来られると、リングに上がれなくなる。それに、腹に力が入らなくなって、レスリングができなくなる」小腸が四ヶ所、切れていた。手術は、無事に終わった。大山倍達は『力道山刺される』のニュースを聞いてハッとした。(とうとう力道にも、天罰が下ったか……
 
「マイク、おれ、死にたくねえよ……」それが長谷川の聞いた、力道山の最後の言葉となった。ひとりの力道山側近は、力道山の死後しばらく経って、山王病院の長谷院長からこう聞いている。「薬の与え方を、読みちがえてしまったようだ」薬とは、麻酔薬のことであった。それは、村田勝志の裁判の過程で、しだいに明らかになった。麻酔を打ったときに、ショック死した」という説もある。尋常でない力道山の体力を考えて、大量投与したということであろうか。解剖された力道山の内蔵は、ずたずたであった。バットで殴らせて、筋肉の強さを誇示したり、暴飲暴食がたたった。解剖に立ち会ったある医師は村田氏が刺さなくても、プロレスラーとしての生命は、もう終わっていましたね
 
・大山は心の中で語りかけた。「力道よ、おまえは、殺されてもしかたがない。自業自得だ。だが、どうして刺した奴を、一発で殺さなかった。身につけた空手の威力を見せることをせず、どうして死んだんだ……」
 
・死の床で、集まった者たちに、力道山は、三本の指を差し出したといわれる。もはや口がきけず、最後の気力をふりしぼって上体を起こし、三本の指を突き出したのだ。そうして、頼んだぞ、とでもいうようにうなずいてみせた。残された三人の子供を頼む、いっているんだ」「いや彼が持っている三つの国際タイトル、インターナショナル選手権アジアのシングルとタッグの両タイトルを死守しろといっているんだ」「グレート東郷に支払うべき三千万の金のことだ」いずれにせよ三」という数字は、力道山につきまとっていた。宿敵ルー・テーズを破ったのが、昭和33年、試合はいつも3本勝負、リングのロープも三本である。

 

すごいなあ。壮絶だなあ。大山倍達とのエピソードは、梶原一騎『男の星座』にもあるよね。読み返したいなあ。格闘技ファン必読っ!オススメです。(・∀・)

 

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