「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「1964年のジャイアント馬場」(柳澤健)

この本はスゴイ!感動したっ!!!読みながら涙が溢れてきた…。(T_T)


かつてアメリカに、イチローよりマツイより有名なアスリートがいた。その名はショーヘイ・ババ。巨人軍に入団するほどの高い身体能力を持っていた馬場は、プロレスの本場・アメリカでその才能を大きく開花させる。そして1964年2月、NWA、WWWFWWAの世界三大タイトルに連続挑戦という快挙を成し遂げる。巨体にコンプレックスを抱き続けた男が、自らの力でそれを乗り越える。マットの上で人生を戦い抜いた男の旋風ノンフィクション!


力道山が殺された。「日本人はこの惑星で最もプロレス好きの国民である(ルー・テーズ)」の言葉の通り、力道山率いる日本プロレスは、全国どこに行っても超満員の観客を集めた。力道山は世界最大のプロレスマーケットの支配者だった。力道山亡き後、この巨大なマーケットを我が物にしようとし日系アメリカ人レスラーのグレート東郷は、悪役レスラーとして大成功を収め、ロサンジェルスに豪邸を建てた。また牧場やアパート、保険会社、自動車販売外車を経営する実業家としても成功したのだ。


力道山は東郷を深く信用し、日本プロレスのブッカー(外国人招聘担当)を頼んだ。東郷が連れてくる一流外国人レスラーは会場に各地の客を呼び、力道山は東郷に高額のギャランティを支払った。しかし力道山亡き後の四幹部、豊登遠藤幸吉吉村道明芳の里は、東郷には無能に映った。このまま彼らに任せておけば、世界最大のマーケットは崩壊してしまう。そうなれば自分も大きな収入源を失うことになる。


この時、ジャイアント馬場アメリカ武者修行中。東郷は「契約期間10年、契約金16万ドル(当時のレートで5760万円)、年収は手取り27万ドル(同9720万円)を保証する」という契約書を提示した。1960年代前半の27万ドルは、現在の貨幣価値で5〜6億円。当時年収10万ドルを超えるレスラーは本場アメリカにも20人もいなかった。にもかかわらず東郷は、その3倍近い破格の契約を馬場に提示したのである。なぜか?ジャイアント馬場は、日本プロレスを支配する鍵となる存在だったからだ。華のない豊登では、力道山の代役や務まらない。1964年のジャイアント馬場は、イチロー松井秀喜以上の価値を持つ日本人アスリートだったのである。日本で客を呼べるレスラーはただひとり、ジャイアント馬場しかいない。馬場は日本に戻るのだ。力道山の後継者となるために。


・「一番の根本は巨人軍をクビになった劣等感だな。それで奴らを見返してやりたい。もう一度、日の目を見たいという気持ちが俺の中にあった。それがある時『プロレス』ということになったのかもしれないねえ。突然にですよ。その劣等感を吹っ飛ばすために何かやってやろう。プロレスだという気持ちだったんじゃないかな」


22歳の馬場正平は2メートルを超える日本人離れした体格と運動神経、強い足腰、並外れた動体視力と俊敏性、多摩川の合宿所では、相撲でも卓球でも馬場の相手になる者はひとりもいなかったほど日本有数のアスリートだったのだ。


馬場はプロレスを愛していたわけではなく、ヒーローになりたかったわけでもなかった。しかし、プロ野球からの引退を余儀なくされた後、自分の巨体を維持していくためには、一定以上の収入が必要だった。馬場は職業として、生きていくための最良の手段として、プロレスを選択したのである。プロ野球選手に憧れたことはあっても、プロレスラーに憧れたことは一度もなかった。


プロレスの世界では、強さ以上に大切なことがある。「それで客が呼べるのか?」ということだ。あらゆるプロスポーツ興行の目的は観客を呼ぶことにある。初期のテレビにとって、プロレスほど素晴らしいコンテンツはなかった。プロレスには肉体美があり、アクションがあり、ドラマがあり、笑いがあり、憎しみがあり、ハッピーエンドがあった。しかも、テレビ局が用意しなくてはならないものは、リングとレスラーふたり。アナウンサーひとりとテレビカメラ一台だけなのだ。カネも手間もかからない上に、ノックアウトが存在するボクシングと異なり、時間通りに必ず終わってくれる。ボクシングには凡戦があるが、プロレスに凡戦はあり得ない。視聴者の興奮はあらかじめ約束されている。


すべてのプロレスラーは、自分の個性を武器にメインイベンターを目指している。馬場には飛び蹴りも、怪力も、策略も、会話力もなかった、しかし、圧倒的な大きさという個性を持っていた。立っているだけで人を驚かせ、人を集めることができる。しかも人並み外れた運動神経を持っていた。ただの巨漢ではない。ショーヘイ・ババ、ビッグ・ババ、あるいはババ・ザ・ジャイアント。馬場正平アメリカで様々に呼ばれた。ジャイアント・ババに統一されたのはずっと後のことだ。


日本では誰一人逆らう者のいない力道山は、アメリカではひとりの無名レスラーに過ぎない。偉大なる力道山は、しょせん日本人および日系人のヒーローに過ぎない。アメリカ人の観客を会場に呼ぶ力は、まったくもっていなかったのだ。アメリカで馬場ほどの活躍をしたアジア人レスラーはひとりもいない。ザ・グレート・カブキキラー・カーングレート・ムタらがアメリカで人気レスラーとなったことは事実だが、「俺は馬場さんより凄かった」と言える者は皆無。もちろん力道山などまったく比較にならない


「足の使い方、ロープの使い方、フットワーク、試合の流れの作り方。馬場さんは本当に素晴らしかった。力道山先生や豊登さんとは何から何まで違っていたり、合宿所の先輩だった猪木さんと大木さんをふたり足したよりも馬場さんは上だった。試合の流れの中で、どの場面で自分を大きく見せればいいのかを、馬場さんは全部わかっている。大きな鏡の前で研究したんじゃないかな」(グレート小鹿


「日本にきて仏像を見るたびに、いつもババのことを思い出す。イエス。ババはブッダなんだよ」(ザ・デストロイヤー


「日本中どこに行っても、ファンはババに畏敬の念を持って接していた。モハメッド・アリと同じだよ。ババにはアリのような雰囲気、オーラがあった。日本のファンはババに、普通の人間とは違う何かを見ていたと思う」(ブルーノ・サンマルチノ


馬場正平は、普通の日本人とはまったく異なる人生を生きた。人並み外れた大きさと運動神経が、プロ野球へ、そしてプロレスへと導き、アメリカでも日本でも大成功を収めた。しかし、プロレスラーとしての成功が、馬場の本質を変えることは一切なかった。馬場正平はひとりの心優しい日本人として生き、そして死んだ


その他、「エースで四番の三条実業高校時代」「失意のプロ野球引退」「創造主・力道山」「カール・ゴッチが歩んだ悲しき人生」「アメリカンプロレスの洗礼」「史上最高のレスラー〜天才バディ・ロジャース」「憎き東洋の大巨人」「ジェラシーの一時帰国」「三大世界タイトル連続朝鮮」「猪木の逆襲」「人を使う苦しみ」「優しい神様」…など。


アメリカと日本のプロレス史とプロレスというエンターテインメントの光と影も知ることができる。やっぱりジャイアント馬場は偉大だった。感動の一冊です。超オススメです。(・∀・)