「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「少しぐらいの嘘は大目に 向田邦子の言葉」(碓井広義 編)

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「突然あらわれてほとんど名人」と言われた向田邦子さん。享年51。今更ながら、全著作を読んでいます。ウチのオヤジよりも年上だというのが信じられないくらい時代を超えたメッセージが溢れている。この本は、その総集編ともいうべき内容の名言集。そのエッセンスを紹介しよう。

・どんなに世の中が変わろうと、時間の篩(ふるい)に掛けられようと、輝きを失わない「普遍性のある言葉」であることだ。人間を、男と女を、そして親と子を見つめ続けた、向田の時代を超える「まなざし」が伝わればと思う。本を読むことは、書いた人間の「話を聞く」ことだと私は思っている。著者の生死は無関係、ページを開けばいつでもそこに向田邦子がいるーそんな一冊を目指した。
 
女にとって髪をとかすことは、涙であり溜息の代償である。
 
人生至ることに浮気ありという気がする。女がデパートで、買うつもりもあまりない洋服を試着してみるのも一種の浮気である。インスタント・ラーメンや洗剤の銘柄を替えるのも浮気である。テレビのチャンネルをひねるとCMというかたちで主婦に浮気をすすめている。こういう小さな浮気をすることで、女は自分でも気がつかない毎日の暮らしの憂さ晴らしをしている。ミニサイズの浮気である。このおかげで大きい本ものの浮気をしないで済む数は案外に多いのではないだろうか。
 
女が地図を書けないということは、女は戦争が出来ないということである。
 
女のはなしには省略がない。
 
はじめて見る実物の自由の女神が思ったよりけわしい顔をしていた
「あれ、何を持ってるいるの」「右手はタイマツ。左手は独立宣言書だったかな」
「自由と独立……」「女はそういうことば、好きだね」持っていないからよ、女は。結婚したら二つとも無くなってしまうもの。人を好きになっちゃいけないのよ。恋をするのも罪なのよ。昔は殺されたわけでしょ。結婚した女は死ぬ覚悟で恋をしたのよ
 
あなたにとって魅力のある男は、他の女にとっても魅力のある存在なのだから始末に悪い。第一、猫や犬と違って、首輪を付けていない。
 
人の命には限りがあるが、恋路はつきることがない。
 
母は、一切勝負ごとをしなかった。母は賭けごとをしなくてもよかったのではないかと思う。麻雀やトランプをしなくても、母にとっては、毎日が小さな博打だったのではないか。見合い結婚。海のものとも山のものとも判らない男と一緒に暮す。その男の子供を生む。その男の母親に仕え、その人の死に水をとる。どれを取っても、大博打である。今は五分五分かも知れないが、昔の女は肩をならべる男次第で、女の一生が定まってしまった
 
・「結婚して」「七年です」水商売ってのは七年やれば一人前だけど、結婚てのは七年じゃあ駄目なのねえ」
 
・謙造「もらうんなら、ああいうのだねえ」
杉男「植木じゃないよ」
謙造「バカ。女と植木は同じなんだよ、日当りの悪いところで育ったいじけた枝ぶりは、どうやったって直らないんだ、お前のつきあってる、あのー泉って女の子、ありゃ、日当り悪いぞ」
 
・謙造「うちってのは、出た方が負けなんだよ。角力と同じだ」
 
思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい。何十年もかかって、懐しさと期待で大きくふくらませた風船を、自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体ないではないか。
 
ごくたまに、ほんの少し泣くのは、目のためによいのだそうである。涙には、0.何%だか忘れたが、塩分が入っている。それが目の表面についたゴミを洗い流してくれる。ヘタな目薬よりいい、と何かの本で読んだような気がするが、私の記憶だからあてにならない。
 
・今の学生たちは、毎日お風呂に入れるし、セーラー服の替りもある筈である。それなのに、昔の私たちと同じ匂いがする。あれは多分、ものが育つときの匂いなのかもしれない。
 
新聞とひとくちに言うが、私の場合大まかに言うと三つに分けている。配達されて、まだ読んでいない新聞。日付けがかわると、新聞紙になる。三日から一週間たつと、新聞紙、がシンブンガミになってしまう。
 
・読書は、開く前も読んでいる最中もいい気持だが、私は読んでいる途中、あるいは読み終ってから、ぼんやりするのが好きだ。砂地に水がしみ通るように、体のなかになにかがひろがってゆくようで、「幸福」とはこれをいうのかと思うことがある。
 
自分に似合う、自分を引き立てるセーターや口紅を選ぶように、ことばも選んでみたらどうだろう。ことばのお洒落は、ファッションのように遠目で人をひきつけはしない。無料で手に入る最高のアクセサリーである。流行もなく、一生使えるお得な「品」である。ただし、どこのブティックをのぞいても売ってはいないから、身につけるには努力がいる。本を読む。流行語は使わない。人真似をしないー何でもいいから手近なところから始めたらどうだろうか。長い人生でここ一番というときにモノを言うのは、ファッションでなくて、ことばではないのかな。
 
・私はおしゃべりな人間で。ひとつの言葉を選ぶことが出来ないので俳句はつくれないた、もし将来、何かの間違いで句作をすることになったら、俳号はもう決めてある。有眠である。
 
牛蒡(ごぼう)のおいしさが判ったのは、おとなになってからである。ソプラノより有アルトが、日本晴れより薄曇りが、新しい洋服より着崩れたものが、美男より醜男(ぶおとこ)が好きになったのも此の頃である。
 
自由は、いいものです。ひとりで暮らすのは、すばらしいものです。でも、とても恐ろしい、目に見えない落とし穴がポッカリと口をあけています。
 
女が職業を持つ場合、義務だけで働くと、楽しんでいないと、顔つきがけわしくなる。態度にケンが出る。どんな小さなことでもいい。毎日何かしら発見をし、「へえ、なるほどなあ」と感心をして面白がって働くと、努力も楽しみのほうに組み込むことが出来るように思うからだ。私のような怠けものには、これしか「て」がない。私は身近な友人たちに顔つきや目つきがキツクなったら正直に言ってね」と頼んでいる。
 
「う」は、うまいものの略である。
 
おそばのタレは、たっぷりとつけたい。たっぷり、というよりドップリといった方がいい。野暮と笑われようと田舎者とさげすまれようと、好きなものは好きなのだから仕方がない。その代わり、いよいよご臨終というときになって、「ああ、一度でいいから、たっぷりタレをつけてそばを食いたかった」などと思いを残さないで済む。たっぷりはそばのタレだけではない。恥ずかしながら、私は醤油もソースも、たっぷりかけたのが好きなのだ。
 
・天丼にしろ親子丼(これは一体どなたの命名であろう、ネーミングとしては天才的である)にしろ、持ち帰りのする熱つ熱つの丼を抱え込んで食べる、あの生き生きとした充足感は、どんな料理にも及ばない
 
・味つけの面白いところは、うす味のものは味をおぎなって濃く出来るが、その逆は駄目ということであろう。勝負は一瞬で決るのである。
 
猫を飼っていて一番楽しいのは、仔猫の目があくときである。
 
トランプのカードを切るように、四角い景色が、窓の外で変ってゆく。大きい旅小さい旅に限らず、これが一番の楽しみである。

 

名言だらけだね。向田邦子に会いたいときは、この本を繰ろう。超オススメです。(・∀・)

 

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