「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「二人のエース 広島カープ弱小時代を支えた男たち」(鎮勝也)

 


二人のエース 広島カープ弱小時代を支えた男たち (講談社+α文庫)


今年も広島カープが優勝したけど、75年の初優勝のことは今でもはっきりと覚えている!1975年も神ってた!しかし、そこに至るまでの道のりは平坦ではなかった。「お荷物球団」「弱小暗黒時代」……そんなカープに一筋の光を与えた二人の投手がいた。外木場義郎安仁屋宗八!多くの野球人に取材を敢行し、当時の奮闘の日々が鮮やかに蘇るノンフィクション。そのエッセンスを紹介しよう。


初めてカープペナントレースを制覇したのは75年だった。今から41年も前の話である。その優勝こそが今の繁栄の礎を築いた。それまで10年ほどは「暗黒の時代」と呼ばれた。負け続けの日々だった。スタンドには閑古鳥が鳴いていた。しかし、63年にサイド右腕の安仁屋宗八が沖縄から入団する。翌64年には、戦前の沢村栄治(巨人)と同じ3度の無安打無得点試合(うち一度は完全試合、沢村は完全試合がないため、記録的には上回る)を達成する本格派右腕の外木場義郎が加わる。ただし安仁屋は恋い焦がれた75年のリーグ優勝は見ることもなく、カープを去っていた。


負け続けたカープを主に二人が支え、50年代(75〜84年)の4回のリーグ優勝、3回の日本一という「黄金時代」につなげた。その歴史は、安仁屋と外木場という二人の投手がいた。「暗黒」から「歓喜」への十数年を経て、現在にまで伸びている。



王貞治「外木場くんはね、真っ向から投げてくるいいピッチャーでした。ボールは重い。岩石のような球。手元で伸びていたね。タテに変化する質の良いドロップ(カーブ)もありました。コントロールもよかった。なんといってもスタミナがあった。一回から九回までほとんど投げていました。」


ノーヒットノーランでの初白星はこれまで外木場と87年の中日・近藤真市のみ(混同はプロ初登板も含む)である。


年間300イニングの投球回数は、200を超えればエースとみなされる今では考えられない。一球団における投手の絶対数、中5日、中6日で回す先発ローテーション、セットアッパーやクローザーに代表される完全分業制を考えれば、安仁屋や外木場の偉大さが理解できる。


藤田平外木場さんと安仁屋さんがもし巨人におったら、二人とも200勝くらいはいってるやろ。だって点取ってくれるもん。打力でカバーしてくれてるとことに、おるのとおらんのは全然違う。堀内があのV9の生え抜きのメンバーの中で一人だけやろ、ピッチャーで名球会に入ってんのは。いかにあの時の巨人が打線で試合をやってかってことやろな」



外木場は131勝、安仁屋は119勝。その不運を思い遣る。


高田繁「当時はすごいピッチャーがいっぱいいたよ。江夏とか尾崎さんとかね。でも自分にとって外木場は一番嫌なピッチャーだったね。手も足も出なかった。バットに当たったらよろこんでいた。そんなプロのバッターはいないよね。僕にとってはそれくらいのピッチャーだった」


・36年のプロ野球誕生から、50年の2リーグ分裂後も含め、先発をまったくせず、リリーフのみで最優秀防御率のタイトルを手にしたのは安仁屋が初めてである。


外木場のように中三日で先発を続けたり、安仁屋のように先発、中継ぎ、抑えとスポットを問わず三連投した例が消え去っている。それは投手らしい姿だった。だからこそ負け続けても輝いていた。そして、二人はカープを最終的にはリーグ優勝、そして日本一に導いた。王の脳裏に、カープを支えた投手として強く残るのはこの二人である。


やっぱり暗黒時代を支えた人っていうのは価値があるよね。縁の下の力持ちのことを忘れてはいけない。オススメです。(・∀・)


 


二人のエース 広島カープ弱小時代を支えた男たち (講談社+α文庫)