球児の永遠の憧れ、甲子園。その優勝投手というのは、まさに狭き門。選ばれた存在なのだ。
「あの夏、あのマウンドで、完全燃焼できたからこそ今がある―。プロ野球選手となった甲子園優勝投手たちの栄光と挫折。プロ入団時の華やかさとは対照的に、ひっそりと球界を去った彼らの第二の人生とは?愛甲猛、土屋正勝、吉岡雄二、畠山準、正田樹ら七人の軌跡。感動のノンフィクション」そのエッセンスを紹介しよう。
・「流転ー生涯不良でいたい 横浜高校・愛甲猛 1980年優勝」
「酷使ー曲がったままの肘 銚子商業高校・土屋正勝 1974年優勝」
「逆転ー「リストラの星」と呼ばれて 池田高校・畠山準 1982年優勝」
「解放ー夢、かつてより大きく 桐生第一高校・正田樹 1999年優勝」
「鎮魂ー桑田・清原をハブった唯一の男 1984年優勝」
「破壊ー773球に託された思い 沖縄水産高校・大野倫 1991年準優勝」
この甲子園優勝投手たちの取材でいえるのは、あの灼熱の甲子園で連戦連投による酷使により、プロへ行った時点ではすでに肩や肘が壊れていたこと。なぜそこまでして投げるのか?なぜ監督は疲労困憊のピッチャーをそうまでして投げさせるのか?
大野倫はこう言った。
「もし、甲子園決勝で代えられたら、そこそこ栽先生に反発した気持ちが残ったかもしれない。代えずに最後まで投げさせてくれて感謝しています」
元沖縄水産高校監督の宜保政則氏。
「どうして最後まで投げさせたのかって?それは、このピッチャーと思ったら、このピッチャーと死にたいのよ。この子で俺はいいんだと。栽先生は、大野と心中ですよ、と言った。いつも言うさ、心中するのはひとりしかいないって。背番号1をあげた子と心中するのよ。負けるときは投げさせても負ける、そこのひとつの信念がある」
この話を聞いたときは、すべてがわかった。
監督は、エースにすべてを託し、全幅の信頼でマウンドに送り出す。監督としてではなくひとりの人間として十八歳の高校生と心中するつもりで送り出すのだ。ぶざまに打たれようが己が賭けた相手を信じるしかない。ピッチャーはその思いが痛いほど伝わるからこそ、肘が痛くても肩が痛くてもマウンドにあがって投げられる。監督を含めてみんなの思いが背中を押して、勇気を与えてくれる。
野球にかぎらず、人生だってそうだ。長い人生において、必ずどうしてもやらなければならない場面がある。逃げられないときが来る。
甲子園優勝投手とは、われわれには想像を絶する長い道のりを、ぶん殴られ踏みつけられ必死にもがきながら勝ち進んでいって到達した特別な人間である。生まれもった才能を天から授かった特殊な人間なんかじゃない。
必死にもがき苦しんだ分だけ、一緒に戦った仲間とは一生の絆が生まれる。ひとりでは決して優勝投手にはなれないのだから。
甲子園優勝投手という栄冠は、われわれに欠けている人間同士の繋がりを最も顕著に表したものかもしれない。
私は、次に生まれ変わったら、野球選手になり、甲子園に出場し、プロ野球選手になるのだー!野球好きの方、特にオススメです。