「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ヤァ!ヤァ!ヤァ!ビートルズがやって来た」(野地秩嘉)

    


ヤァ!ヤァ!ヤァ!ビートルズがやって来た―伝説の呼び屋・永島達司の生涯


ついこの間も来日したよねー!ポール・マッカトニー!!!私は4年前に観に行ったんだけど、いや〜すごかった〜!興奮した〜!感動した〜〜!あのライブは◯万円を遥かに超える価値があったねえ〜!!!\(^o^)/


MUSIC〜「PAUL McCARTNEY OUT THERE JAPAN TOUR」(東京ドーム)
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20131120


さて、この本はスゴイ!初めてビートルズを招聘した日本初のプロモーター・永島達司の物語。タレントが日本武道館をコンサート会場にするのも初チケット販売を抽選にしたのも日本初。「一タレントの警備を公共機関である警察がやるとは何事か」と国会で論議が交わされたのも初めてなら、首都高速を封鎖して芸能人を送迎したのも空前絶後のこと。当時の熱狂とどれだけ困難なことだったのかがコーフンして読みました!(・。・)!


ビートルズは66年にたった1度だけ来日公演を行った。人気絶頂期に極東の島国での公演を実現させたのは、タツという愛称で海外のアーティストからも 親しまれた日本人プロモーターだった。コンサートの企画・制作の最大手、キョードー東京ウドー音楽事務所創立者であった故・永島達司氏である。銀行員だった父親の仕事の関係で、子どもの頃に海外生活を体験した永島氏は、戦後、進駐軍との交流から「呼び屋」の世界に足を踏み入れた。詐欺師まがいの 連中がうごめく興行界で、誠実で気配りに長けた彼は内外のアーティストやプロモーターの信頼を勝ち取っていった。日本の音楽イベント業界の礎を築いたその 生涯記は1つの産業史」そのエッセンスを紹介しよう。


・「タツ、お前に100万ドル儲けさせてやるよ。その代わりに俺にも同じだけ、儲けさせろ。すぐじゃなくていい。いつか必ずだ、実はビートルズが日本に行きたいと言っている。コンサートをやってくれないか。俺が知っている日本人はお前しかいない。どうだ、お前、やってくれないか?」ビッグ・ルイスの声は陽気だった。彼は心底から永島がこの儲け話を喜ぶものと信じているようだった。


・永島には感激も喜びもなかった。「できればやりたくない」というものだった。ビートルズともなればギャラが高いから闇ドルを集めるのも大変だし、必ず税務署に目をつけられる。それに熱狂的なファンが多いから暴動にでもなったら困る。せっかくうちの会社が地道にやって、業界の信用を勝ち得てきたのに、ここでわざわざ派手なことに手を出すこともないんじゃないかー。


ビートルズを見に来るの?』と中学生の女の子に声をかけたら『もちろん』という。脚の一本くらい折れてもいいから客席から飛び降りて舞台にいってキスしたい、と言い放ったんだよ。その少女があまりに真剣な顔だったから、私たちはなんとも驚いた。これは一大事だと思って驚愕したんだ。



警察がビートルズ日本公演を戦場ととらえているとすれば、消防の覚悟はそれを上回っていたかのようだ。それは消防庁始まって以来、空前の大警備計画が採用されたことにも表れている。


・演奏が始まった後、目の前で繰り広げられる光景を見て、ただただびっくりしていた。「しびれちゃうんだ。人間がしびれるという状態を生まれて初めてこの目で見た。床へへたりこんじゃうんだよ。しびれてしびれてそれで失禁しちゃうんだ」


・ポール・マッカトニー「私の考えでは、タツ・ナガシマは日本の音楽業界にとってもっとも大切な存在でした。彼は日本の人々に西洋の音楽と音楽家を伝えました。彼以上にそのことに秀でた人間を私は知りません。音楽の世界では日本を代表する外交官だったのです。また、個人としての彼は最高の紳士でした。そして私の家族にとっても素晴らしい友人でした。私と子供たちは私たちの大切なタツが亡くなったことを聞いて悲しみに沈んでいます。けれども私たちにはタツを楽しい日々を過ごした思い出があります。ありがとう、タツ


「コンピュータの発券システムがなかった時代」ってこんなに大変だったんだあ……思い出した……。(・。・)あの時代の息づかいが聞こえるかのようだ!超オススメです。(・∀・)!


    


ヤァ!ヤァ!ヤァ!ビートルズがやって来た―伝説の呼び屋・永島達司の生涯