「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝」(細田昌志)

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いや〜すごい!すごいわー!一週間かかってじっくり読みました。こりゃ、今年のナンバーワン決定だね。550ページ、3,000円を超える本だけど、途中で止まらなくなりましたー!あの時代、ワタシが大好きだったキックボクシングの沢村忠を世に生み出した、えっ?五木ひろしも!?知らなかった!野口修明治大学の大先輩じゃないかー!こんな裏があったなんて!!!
 
若槻礼次郎暗殺未遂に関与したプロボクサーを父に持ち、多様な人脈の中で育った野口。彼はタイのムエタイ「キックボクシング」として日本に持ち込み、沢村忠を擁して一大ブームを巻き起こす。さらに、まだ無名だった五木ひろし日本レコード大賞歌手に育てあげた――。伝説の興行師の足跡と共に刻まれた、壮大な昭和裏面史を描く!」そのエッセンスを紹介しよう。
 
野口修は、1934(昭和9)年1月24日東京市本郷生まれ。明治大学を卒業後、実家が営む野口拳闘クラブのマネージャーとなり、若くして数々のタイトルマッチをプロモートする。タイ式キックボクシング(ムエタイ)の日本版としてキックボクシング」を創設。和製英語であり野口修が名付け親である。ボクシング界に新風を吹かせ、キックボクシングのブームを起こし、芸能界を席巻した希少な人物。身長165センチ、体重65キロに満たない小柄で痩身な男には、底知れぬ野心と才能が詰まっていたのだ。
 
・「野口家っていうのは特殊な家なんです。古い関係者でも、その背景についてあまり知らないし、知ろうともしない。蓋をしているものを開けることになりかねないから。いろんなものが出てしまいかねないから。あなたは、そのことを判った上で取材をしていますか?
 
志生野温夫キックの興行では派手な曲が流れた。野口さんのアイデアだという。感覚の新しい人なんだ。だから、彼がその後、芸能界で成功しても別に驚かなかった」
 
「永田貞雄と野口修くらいだよ。興行を創ったプロモーターって言えるのは」
 
「ホラ吹き」「ハッタリ屋」「ずる賢い」「計算高いと、辛辣な評価を聞いたのも一度や二度ではない。「あの人は、自分を大きく見せたい欲求の強い人だったね。度が過ぎていた。あれがなければ、冗談じゃなくて、偉人になれたと思うよ。それに、自分が創り上げたキックボクシングというものを、大事にしなかった。不思議だよ。あれは一体何でなのかねえ」(元キックボクシング仙台青葉ジム会長の瀬戸幸一)
 
・「その頃世の中には、“ふたつのキック”が存在したと言っていい。「真剣勝負」と「八百長を指している。沢村は後者だった」(スポーツライター布施鋼治
 
野口修も、当代随一のプロモーターだった。彼は一体どうやって成功を掴み、どのタイミングで成功を手放したのか。そこにはどんな理由があったのか。キックボクシングから撤退しても、芸能で生きる道はなかったのか。レコ大歌手まで排出したのだ。並大抵の偉業ではない。その選択肢はなかったのか。野口修にまつわる、これらの疑問を解き明かし、そのことを書きたいと思った。歴史に埋もれた彼の存在を、自分の手で世間に広く知らしめたい。
 
「タイ式ボクシングと戦わせるのは、ボクサーでは無理だ。空手家だ」
 
野口修「キックボクシング」を商標登録しなかったのは「知らなかった」のでもなければ「怠っていた」のでもない。意図的にしなかった。できなかったのだ。
 
山口洋子の書いた最大のヒット曲『うそ』は、野口修が投影された唯一の作品であるのかもしれない。
 
・ボクシングの元世界フェザー級王者の西城正三は、キックボクサーとして過ごした八ヶ月間について、「一切話さない。死ぬまで話さないと決めている」と筆者に告げた。
 
真樹日佐夫往年のキックの全盛期というのは、沢村忠というスターを作り出せたから、客が来たし、テレビも乗っかったんだ。最初から恵まれた環境にあったわけじゃないんだよ。何もないところにテレビがあったわけでもない。そこを勘違いしてもらっては困る。だから、君がそう望むなら、沢村に匹敵するスターを作りなさい。客を呼べる、テレビを呼べる、そういう選手を育てなさい。サボってはいかん。それをするのは、指導者たる君の役目じゃあないか」
 
山口洋子『よくよく考えてみると、私は嘘を嫌っていても、憎んでもいない。嘘とは四六時中一緒に暮らしているし、共に歩いてきたという気もする。嘘をつくことの方がずっと勇気と真心が要る場合もある。死に瀕している癌患者に病名を告げない嘘、妻の浮気のあやまちを告げない嘘、逆に夫の裏切りを知らないふりでとおす嘘、嘘も方便などといういう事あは安易であまり好きではないが、ことがらは嘘でも、嘘をつく心、嘘をつかねばならぬその心が真実である場合がある。嘘は人間としての思いやりでありエチケットであり、大人の知恵でもある。嘘は愛の変形である場合も多い。何でもかんでも真実を告げたり、本音でふるまってしまうのはただの粗野で無神経なだけなのだ』
 
野口修は、吸ったばかりの煙草を諦めたように口から離すと、折るように消した。苛立っているときの癖である。その所作が独特なだけに、嫌でも印象に残っていた。苦い記憶が甦るたびに、例外なく、彼は折るように煙草を消し続けた。
 
山口洋子の書いた最大のヒット曲、『うそ』は、野口修が投影された唯一の作品であるかもしれない。
 
「キックボクシングを創設し、沢村忠五木ひろしを世に送り出した昭和のプロモーター」それが、野口修に贈る一番の称号かもしれない。
「柔道の鬼」木村政彦
「ゴッドハンド」大山倍達
「男の星座」梶原一騎
彼らは比類なき偉人であった。しかし、野口修は偉人でもなければ、巨人でもなかった。父でも、鬼でも、神でも、星でもなかった。彼は一介のプロモーターだった。ただし、これだけは言える。偉業とは、必ずしも、偉人だけが成し遂げるものではないということを。
 
「日本初の格闘技プロモーター」「王貞治を引きずり下ろした1973年の日本プロスポーツ大賞」「最高最大の豪傑ボクサー=野口進」「若槻礼次郎暗殺未遂事件」別れのブルース(上海時代)」「新居浜(三迫仁志)」「日本ボクシング使節団」「島岡吉郎藤田元司渡辺晋堀威夫明治のスター(秋山、土井)」「プロモーター・野口修」「日本ボクシング史上初乃の親子日本王者」「最強・矢尾板貞雄。ファイティング原田斎藤清作(たこ八郎)」「空手家・山田辰雄」「タイ式ボクシング対大山道場」「沢村忠誕生」「沢村忠の真剣勝負」「真空飛び膝蹴り、梶原一騎キックの鬼」「山口洋子との出会い」「大門節江(節子)と沢村忠」「野口ジム事件」「1973年の賞レース(資料をもってこい)」など。

 

1973年のショーレースは、覚えているなあ。沢田研二「危険なふたり」だと思ったけどねー。レコード大賞にはこんな背景と裏があるんだね。五木ひろしのラスベガス公演も、プレスリーも!多くの人に読んでもらいたい。今年ナンバーワンです!超オススメです!!!(・∀・)

 

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