酒場のギター弾き 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「いつも見ていた広島 ダウンタウンズ物語 小説吉田拓郎」(田家秀樹)

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小説吉田拓郎 いつも見ていた広島―ダウンタウンズ物語

小説吉田拓郎 いつも見ていた広島―ダウンタウンズ物語

 

ワタシの永遠のヒーロー、吉田拓郎。拓郎からどれだけの影響を受けたか言葉にはできない。鹿児島生まれ、広島育ち。バンドでドラムを叩いていたことは知っていはいたが、そのバンドがダウンタウンズ」という名前だは知らなかった!(@_@)!

 

 日本のフォーク、音楽シーンを変えた男、拓郎が、デビューするまえの大学生時代のストーリーがコレ。「あの時代の広島の青春」は日本一の若者文化だった。ビートルズがデビューした直後、終戦の名残りまだ残る、被爆地・広島の痛みやベトナム戦争、学園紛争など、吉田拓郎を生んだ土地とその時代がなまなましい。そのエッセンスを紹介しよう。

 
・拓郎が生まれ、幼年期を過ごした鹿児島の家は農家で、サトウキビやとうもろこし、落花生などを作っていた。庭には土蔵や納屋がある広い家で、一時は豚小屋まであった。拓郎の父親は鹿児島県庁で農業史を研究する郷土史家だった薩摩隼人を絵に描いたような男で、起こると仁王様のようだった。
 
拓郎の母は鹿児島時代は私立ラ・サール学園の栄養士をしていた。広島に移ってからは、自宅で茶道教室を開いていた自宅の一階が母親の茶室と教室になっており、拓郎の部屋は二階にあった。藤田(和之)は、拓郎の部屋に寝泊まりしながら吉田のお袋は自分の母親より母親らしい気がする」と慕っていた。
 
・仕事一筋の父は近寄りがたい存在で、甘えるような相手ではなかった。その分、可愛がってくれたのが祖母だった。祖母は皺が刻まれた乳房を左右に揺らしては、拓郎に触らせるのだった。広島に移ってからも中学三先生まで姉と一緒にお風呂に入るといってきかなかったということは、彼の秘密の一つだ。そうやって周りに女性が多かったせいか、逆にあからさまに性的欲求は弱い方だった。女性は性的な対象というより、安らげる場所に近かった
 
・拓郎はすでに高校時代に、オリジナルの曲を書いている。ディランの1964年に出た3枚目のアルバム「時代は変わる」の中に入っている『ハッティ・キャロルの寂しい死』を基にして、彼が好きだった一学年下のテニス部の女の子をモデルにした曲を書いた最初のオリジナルだった。島田準子が吉田拓郎に与えた多大なる影響』というタイトルだ。それを聞いた友達はみんな「長いタイトルじゃのう」と呆れた。
 
・1966年、昭和41年1月ー。まだバンド向けのオーディションもコンテストもない時代だった。地方に住む若者にとって、音楽で身を立てようと思ったらまず東京に行って、レコード会社や有名作詞家や作曲家の門を叩かなければいけなかっ。2年前に17歳でデビューした西郷輝彦の、歌手になるために鹿児島からボストン一つで上京したといういエピソードが週刊誌を賑わせていた。彼も家出だった。これから必ずバンドの時代が来る。それもオリジナルだ。ベンチャーズみたいな演奏だけじゃなくて、オリジナルの曲をやれるボーカルの入ったビートルズみたいなバンじゃ。陸奥田も知っとるやろ、そういうバンドはまだ東京にも少ないと思う。広島でやっておっても誰も認めてくれんよ。俺たちは絶対にやれる。な、東京へゆこう
 
ペトゥラ・クラークが歌って1965年に全米一位になった恋のダウンタウンは、拓郎が大好きな曲だった。バンド名に自分が大好きだった曲のタイトルを付ける。それだけで胸が踊るような気がしてくるのだった。バンド名はダウンタウン吉田拓郎は、過去を引きずらない男だった。1967年春、日本列島には空前のGSブームが訪れようとしていた。
 
『土地に柵する馬鹿がいる』「ソロで歌う時の別名『入江順』『好きになったよ女の子(たどりついたらいつも雨ふり)』「キモトタツオ(西城秀樹)との出会い」など。ワタシでも知らないエピソードがたくさんっ!続編が読みたい!拓郎ファン必読っ!超オススメです!(・∀・)♪
 

 

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小説吉田拓郎 いつも見ていた広島―ダウンタウンズ物語

小説吉田拓郎 いつも見ていた広島―ダウンタウンズ物語