「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「性愛空間の文化史」(金益見)



性愛空間の文化史



この本のタイトル「性愛空間」とは、要するに「ラブホテル」のこと。昔は「待合」「連れ込み旅館」って言ってたんだってね。φ(..)メモメモ


そのラブホテルの歴史と変遷とは?ホテルの外観や経営者の変化を取り上げ、名称がその時代の人々の性意識を色濃く反映させてきたことを解明する。そのエッセンスを紹介しよう。



昭和初期から敗戦後、大阪城の草むら同様、東京では皇居ま広場がアオカン(屋外性愛)のメッカとして有名な場所であった。多くの娼婦がそこで商売していたという。また、当時は夫婦であっても自宅で思う存分セックスすることが難しく、どこの家庭にも、セックス中に子供が入って来たときのための枕屏風があった。風呂といっても共同風呂がひとつあるだけの旅館がそこまで繁盛した大きな要因は、公娼制廃止や、住宅事情の問題で「ひと目につかずセックスできる場所」が少かったことが大きく関わっていた。


鶯谷では、地元でインク屋をやってたとか、万年筆屋をやってたとか、下駄屋をやってたとか、全く違う商売をやってた人が、旅館やホテルに転業したという形が一番多いです。そっちの方が儲かりそうという理由で。


この業界って、老舗がないんですよね。絶えず新しくないとダメってのがあって。うちもリニューアルするたびに名前を変えているんですよ。お客様に変わったっていうイメージを与えるためです。リニューアルのスパンは20年前くらいですね。最初は「冷暖房完備」で次は「カラーテレビあります」とか、置いてるものもだんだん深化していきました。今なら冷蔵庫完備は当たり前かもしれないけど、昔はビールなんかも持っていったので。仲居さんが靴をお預かりして部屋にご案内していたので。


円山町周辺のホテル街は、「ダムで水没した白川村のひとたちが渋谷に来てホテル業を始めたことがきっかけ」であるとされている。東京に出てきた白川村出身者は、立ち退き料としてもらったお金で土地を買い、料理旅館を始める者が多かった。東京駅周辺は土地の値段が高く、旅館を建てられないところもあったので、新宿、渋谷、蒲田、川崎の順番で、村から出てきたものが次々と土地を書い、旅館経営を始めたという。料理旅館を始めた理由は「家庭料理なら作れるし、生活してたら旅館業で必要な仕事はできる」ということであった。


旅館がラブホテルに変わっていった理由は「お金」だという。「料理旅館は大変でしょ。お客さんが来て夕食を作ってあげて朝飯を作ってあげて「ありがとうございました」で一万円とるのと、男女のカップルが来て、こっちは何もしないで、お客さんがぱっと帰ってくれて一万円とどっちがいい?後者のほうが儲かるし、客が来るし、仕事も楽じゃない。あと料理をする場合、調理師の免許、食品衛生の免許が当時必要になってきた。それまではいらなかったんだけど、そういうことを言われ出した。そういうのがめんどくさいなあという人もいて、だんだんとラブホテルに変えていったんだよね。」


旅館は女性の商売だったんです。温泉旅館も実際は女将が取り仕切ってる。昔はお妾さんが多かったんですよ。この円山町でも旦那さんは大きな会社の社長さんで、お妾さんにホテルを保たせて経営させるというのがすごく多かったんです。大半はそうでしたね。


・今も誰もが知っている「ラブホテル」という名称は1970年ごろ誕生したとされている。2001年ごろにはほとんどの雑誌がラブホという言葉を使うようになっている。


なるほど〜〜渋谷のラブホ街ってそういう歴史があったんだ〜!時代と共に変わるんだね。オススメです。(・o・)




性愛空間の文化史