私が子供の頃は、もう「東映フライヤーズ」は消滅していた……。「日拓ホームフライヤーズ」そしてやがて「日本ハムファイターズ」になるのだ!
さてこの本。懐かしいなあ〜!あの追憶の球団、「東映フライヤーズ」の歴史、そして光と影。中でもあの!ハリさんこと「張本勲」の章を紹介しよう。
【大打者の若き日 張本勲】
・昭和31年、もう浪商受験の中学生の入学合格者はすべて決まっていた早春の朝、「先生、大変です。ヘンな中学生が校門の前で、どないしても浪商に入れてくれといって動かないんです。断っても帰れへんのです」職員室に生徒が知らせに来た。
浪商監督、中島春雄が校門に行ってみると、見ただけでその少年が貧しい家の出なのがすぐにわかった。大阪の子ではないのもわかった。張本勲だった。張本は広島の段原中学から地元の広島商業、広陵高校への進学がかならず、松本商業(現在の瀬戸内高校)定時制に進んだが、どうしても野球強豪校の浪商に転向したくて押しかけてきたのだ。
「聞いてみたら、広島からひとりで汽車に乗って、今朝方、大阪に着いた…と言うんです。兄ちゃんが汽車賃を工面してくれはった。そのうえ、300円もオカネをくれた。野球で身を立てて親兄弟を楽にさせてやりたい。『浪商に入れてください』と切々と訴えたんです」中島は心打たれ、下宿を探し、入学の手続きをとることになる……。
・張本は東映で、それこそバリバリだったとき、バッティングについて、吐き出すように言ったことがある。「ピッチャーが投げてくるボールは、親の仇だと思って、ひっぱたいています」
・張本は山本一義を合宿所の自分の部屋に案内した。押入れから大きな布団を出した。からだが大きいので、ふつうの布団だと足が出てしまうらしい。「この布団、東映に入団し、この合宿に入るときに、オフクロが縫ってくれたんです。先輩、ちょっと失礼します。わたしも、これから休みます。今日は、ありがとうございました」と言ってから、星座をし、広島のほうに向かって、“今日もこの布団に寝かせてもらいます。おかあさん、おやすみなさい”と、母親、南田(なんでん)さんんい、手を合わせるのであった……。
はあ〜〜先人たちの苦労と努力が、今の北海道日本ハムファイターズを作っているんだね。野球ファン、必読!オススメです。(・∀・)