「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「天平の甍(いらか)」(井上靖)


天平の甍 (新潮文庫)


この本はスゴイ……史実に圧倒される……。名前では、遣唐使のことは知っていた。そして唐招提寺を開いた鑒真和上が、六度目の悲願で、失明してまでも来日して仏教を広げたことを……。しかしその詳細をこの本で知って絶句した……すごすぎる……。(T_T)


「戒律」という言葉には2つの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていた。朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたが、国策として仏教を信奉している以上、僧を弾圧する訳にもいかない。とはいえ“にわか僧侶”たちには仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっており由々しき事態だった。

仏教の先進国・唐では、新たに僧を志す者は、10人以上の僧の前で「律」を誓う儀式『授戒』を経て、正式に僧として認められた。この制度を朝廷は日本に導入しようと画策する。つまり、国家が認めた授戒師から受戒した者だけを僧に公認すれば、一気に僧の数が激減するし、僧侶個々人の質も高くなると考えたのだ。


ところが国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかった。そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と勅命を受けた。
当時、遣唐使は文字通り命がけだった。派遣された12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。半分以上が遭難していた


唐は国民の出国を禁じており、密出国の最高刑は死罪だった……。鑒真来朝という日本古代史上の大きな事実をもとに、極限に挑み、木の葉のように翻弄される僧たちの運 命を、永遠の相の下に鮮明なイメージとして定着させた画期的な歴史小説。そのエッセンスを紹介しよう。


・朝廷で第九次遣唐使発遣のことが議せられたのは聖武天皇天平四年(西紀732年)。九月には近江、丹波、播磨、安芸の四カ国に使節が派せられ、それぞれ一艘ずつの大船の建造が命じられた。この年のうちに、遣唐使の収容人員は決定され、正式の任命をみた。知乗船事、訳語(おさ)、主神(しゅしん)、医師(くすし)、陰陽師(おんようじ)、画師、新羅訳語、奄美訳語、卜部(うらべ)等の随員を始めとして、都匠(としょう)、船工、鍛工、水手長(かこおさ)、音声長(おんじょうおさ)、音声生(おんじょうじょう)、雑使(ざっし)、玉生(ぎょくじょう)、鋳生(ちゅうぞう)、細工生(さいくじょう)、船匠等の規定の乗組員から水手(かこ)、射手(いて)の下級船員まで総員580余名


・大安寺の僧普照(ふしょう)興福寺の僧栄叡(ようえい)の二人に、思いがけず留学僧として渡唐する話が持ちだされたのは、二月の始めであった。普照は一体唐へ渡って何を学んだらいいのかと訊ねた。何も生命を賭けてまでして唐土を踏まなくても、勉学はどこででも出来るはずである。自分は今までにそれをして来ている。


・当時仏教界で最も勢力を持っている元興寺の僧隆尊から、日本ではまだ戒律が具わっていない。適当な伝戒の師を請じて、日本に戒律を施行したいと思っている。併(しか)し、伝戒の師を招くと一口にいっても、それは何年かの歳月を要する仕事である。招(よ)ぶなら学徳すぐれた人物を招ばなければならないし、そうした人物に渡日を承諾させることは容易なことではあるまい。併し、次の遣唐使が迎えに行くまでには15、6年の歳月がある。その間には二人の力でそれが果たせるだろう。それほどの長期の入唐なら、一か八かの危険を冒して遣唐使に乗り込むことも強(あなが)ち悪いことではないと思われた。


「こうしたことを、いままで多勢の日本人が経験して来たということを考えている。そして何百、何千人の人間が海の底に沈んで行ったのだ。無事に生きて国の土を踏んだ者の方が少ないかも知れぬ。一国の宗教でも学問でも、何時の時代でもこうして育ってきたのだ。たくさんの犠牲に育まれて来たのだ。幸いに死なないですんだらせいぜい勉強することだな」


鑒真は口を開いた。「法のためである、たとえ渺慢(びょうまん)たる滄海(そうかい)が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないのなら私が日本に行くことにしよう


・業行は海の方へ顔を向けたまた、例の低いぼそぼそとした口調で行った。「貴方はどう思っているか知らないが、私が大使の船を希望したのは、自分の生命が惜しいためではない。私が何十年かかけて写した経典に若しものことがあったら取り返しがつかないと思ったからです。あれだけは日本へ持っていかなければならない。律僧の二人や三人はかけ替えはあるが、あの写経には替るものがない。そうじゃないですか」


鑒真が寂したのは唐招提寺ができてから四年目の天平宝字七年の夏であった。鑒真は結跏趺坐して、西に面して寂した。年76。死してもなお三日間は頭部は暖かかった。このため久しく葬ることができなかった。


いや〜スゴイ、スゴすぎる……7000巻〜8000巻とも言われる経典を書き写すために、数十年をかける……命よりも大切なその経典が舟とともに沈む……。その切なさの極み……。(T_T)…こういう先人たちのおかげで仏教が広がったんだねえ……映画も観てみたいなあ。スゴイねえ。超オススメです。



天平の甍 (新潮文庫)