一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

「仏教とっておきの話366 冬の巻」(ひろさちや)

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仏教とっておきの話366 冬の巻 (新潮文庫)

仏教とっておきの話366 冬の巻 (新潮文庫)

 
この本を読むと日本は仏教国なのだ!というのが腑に落ちる!シリーズ2冊目!そのエッセンスを紹介しよう。
 
・ある年の元旦。一休さんは墓場から髑髏(されこうべを拾ってきて、それを竹竿の先に結びつけ、京の街をてくてく歩く。「皆の衆。ご覧(ろう)じろ。この髑髏の、ここんところに二つの穴がある。昔はここの目玉があった。したが、目玉は飛び出てしもうた。目が出た、目が出た、目出たいのう……ご用心、ご用心」というのだった。それで京の商家では、元旦から三日間、戸を閉ざしておく習慣ができたそうだ。一休禅師にとって、骸骨や髑髏は仏教を語る大事な表現手段であったわけだ。
 
「見ざる・聞かざる・言わざる」という三猿像は、悪を見るな・悪を聞くな・悪を言うな」と教えたものだ。
 
・仏教には「不思議」という言葉がある。思議しない、という意味である。あれこれ考えるな、思い悩むな、というのが「不思議」である。自然は不思議である。良寛さんはそのように言っておられる。
 
方便とは、古代インドのサンスクリット語「ウパーヤ」の訳語で、その本来の意味は「近づく」である。目標に向かって一歩一歩近づく歩みそのものが方便で、その歩みそのものが尊いと教えているが、「方便」の思想である。
 
観音さまは、正しくは観世音菩薩、略して観音菩薩という。世間の人が救済の声を発する、その音声を観じて衆生を救済される菩薩」といった意味である。しかし、おかしいと主ませんか。音は聞くものであるのになぜ「聞音菩薩」「聴音菩薩」といわずに「観音菩薩」というのか?それは音が伝達されるスピードがあまりにも遅いからである。一秒間に約300メートル。光であれば、一秒間に約30万キロを進む。光速は音速の百万倍である。だから口元を観ていると、溺れた人間が救助を求めたその瞬間に行動を起こせるわけだ。それで、観音さまは、音を聞かずに音を観ておられるのだ観音さまは溺れた人の口元を観ておられるのだ。
 
「南無」とは全身全霊をこめて仏を拝み、経典の教えを信じることを表明したことばである。これを意訳すると「帰命」となる。「南無三」は正しくは「南無三宝であって、三宝ー「仏」「法(教え)」「僧(教団)」への帰依を表明したものである。
 
・目の不自由な人が友人の家を辞去しようとして、夜道ですから提灯をお持ちなさいと友人に言われた。彼はむっとなって「目の不自由なわたしに、どうして提灯が要るのですがか?からかっちゃいけません」と怒った。すると友人はこのように言った。あなたには提灯はいらないかもしれないが、あなたが提灯を持っておられないと、目の見える人にわからず、ぶつかるかもしれません。だから提灯を持ってお帰りください」実は、わたしたちの日常生活において、自分には必要でなくても、自分がそれを持っていないと他人が困るものがいろいろあるのである。仏教では「ご縁の世界」なのだ。わたしたちはそのように認識して、他人への気遣いをすべきである。
 
その他、「三界は火宅なり」「のちどほ、まとめて」は廃語に」「不飲酒戒の意味」「落ち穂拾いと生飯」「情けは人のためならず」「寒苦鳥の教訓」「バクシーシ(与える)の論理」「福は内、鬼も内」「死後の世界の有無(マールンクヤープトラ)」「三歳の童子も知るが…(道林と白楽天)」「阿弥陀仏の誕生日」「一蓮托生」「観音経と交通事故」「日輝上人とミリエル司教」「ただ「焼けた」と見る」「三輪清浄の布施」「鹿皮は足につけよ」「曲がりくねった松を真っ直ぐに見る」「悪魔がくれた白い象」など。

 

すごいなあ…仏教は深いなあ!もっと勉強しよ!オススメです!(・∀・)

 

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仏教とっておきの話366 冬の巻 (新潮文庫)

仏教とっておきの話366 冬の巻 (新潮文庫)