いや〜この本にはビックリした!驚いたっ!「賢治には霊の世界(異空間)が見えていた。これが賢治の詩や童話や生き方の根底にある」というの著者の賢治論の立場なんだとか。ひえ〜〜!!!!(@_@)!!!そのエッセンスを紹介しよう。
・宮沢賢治が天才でありつづけたのは、彼の純粋誠実な人格、ミューズからの魅力を十分にひきつける、賢治の柔らかい魂の波動、それに天性の霊媒体質であった。
・『春と修羅』の魅力の源泉とはいったい何か。それは『春と修羅』が〈詩集〉ではなく、〈心象スケッチ〉であるところにある。誰にも見える筈なのに(実際は見えていない)、しかし賢治には見えている。
『すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として 第四次延長の中で主張されます』
つまり、第四次延長の世界の風景だから、霊媒体質の賢治には見えていて、他の人には恐らく見えないのである。
・吉本隆明氏は、『銀河鉄道の夜』は、この世と死後の世界の架け橋を渡って、戻って来た話を書いた珍しい作品、と解している。とすれば、そこにあるのは他界の風景である。
・賢治にとって人間とは
『わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)』
自我とは、〈幽霊〉つまり他者たちとの複合体でありながら、しかし、その統一原理として厳然と灯りつづける主体なのである。賢治は。このことを、自分自身の実感でとらえていたのである。
・ではなぜ、賢治は、このような〈心象スケッチ〉を提示したのだろうか。それは、これこそが、真実の世界、世界像だからである。
・『私達の感官で感じられ、それを記帳できる科学の範囲というものは実にはっきりしていましてねえ、耳であろうが、目であろうが、まるでたよりにならないものなんですよ。然し、科学というものは、感官を信じるよりほかにないのですし、またそれを信じなければならんのですねえ』
・『私は春から生物のからだを食ふのをやめました。……食はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふのでしょうか。……もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。……私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません』(大正7・保坂嘉内宛の書翰)
・「私」というのは、たくさんの幽霊の複合体なんです。賢治の目には、自分のまわりにたくさんの霊の姿を見えたり、感じられたりするから、それをありのままに私とは、「透明な幽霊の複合体」と表現したんです。つまり人間とは孤立した存在じゃないんですね。死者の霊、生者の霊、動物や植物の霊、天使や神々の霊など、そういうものにとりまかれて、そいういうものの波動の影響を受けながら、自分というものが存在しているんです。
・賢治は、人間とは霊だ、他の人も霊だ、交流し合っているんだ、友だちだ、兄弟だ、つながっているものだ、虫も動物もつながっているものだという考え方ですね。
・何もないようにみえる「空(くう)」それは空虚なるものではない、光を通す或るものなんだ、或るものどころか太陽も地球もすべてのものを存在せしめて抱きかかえている或るものなんだ。真空とはー空虚ではないー一種の生命母体だ。われわれを支える大いなるもの、宗教的に言いますと神とでもいいますか、宇宙の大生命というものがあるんだ、それがわれわれを抱きかかえて支えていてくれる、大いなる愛なんだ。このように宇宙は愛である神であり、そしてその中の人間は皆兄弟であってお互い同胞愛があるんだ、これが宇宙の真実、人間の真実じゃないか。
・賢治は臨終の時に、母にこう打ち明けています。「この童話は、ありがたい、ほとけさんの教えを、いっしょうけんめいに書いたものだんすじゃ。だから、いつかは、きっと、みんなで、よろこんで読むようになるんすじゃ」。
私の初恋の女性は、宮沢賢治を追って、岩手大学農学部に進学した。私は大学の人形劇サークルで「注文の多い料理店」の脚本を書き、人形を作り、演出した。インドで暮らしている兄の愛読書が「銀河鉄道の夜」でした。うーん、やっぱり縁があるなあ…。興味が在る方、ぜひ読んでください。感想を分かち合いたいなあ。オススメです。(・∀・)!