「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

HUMAN〜「医療の挑戦者たち26」(北里柴三郎/福沢諭吉)

毎年の恒例のルーティンで、元日の新聞は複数紙買う。読売、朝日、日経、東京スポーツ日刊ゲンダイ…などなど。そしてじっくりと読み、今年に一年の全体像を把握し、戦略戦術を練るのだ。


そして今年は一面広告でこのコラムが載っていた。日本の医療の黎明期の話だ。感動した。ぜひ新聞を読まない方にも紹介したいのでその全文を紹介しよう。


「医療の挑戦者たち26 人に報いる。恩に報いる。北里柴三郎福沢諭吉


1892年(明治25年)の秋、北里柴三郎は三田の福沢邸へと続く道を歩いていた。
福澤はすでに慶應義塾に大学部を設け、偉大な教育者として名を馳せていた。一方の北里は、ドイツ留学で破傷風菌の純粋培養に成功し、さらに破傷風の血清療法を開発するなどの世界的な業績を挙げた後、帰国し、内務省衛生局に復帰していた。
しかし、復帰とは名ばかりで、研究所はおろか研究室さえも与えられず、もう半年近く無為な日を過ごしていた。そんな折、内務省のかつての上司から、福澤諭吉に会ってみろ」と勧められたのだ。


北里の話を聞いた福澤は、「この男に活躍の場を与えないのは国家の損失だ」と悟った。そしてその場で、「とにかく小さくても仕事を始めて、それから方策を 考えればいい。私が芝公園に借りている土地があるから、そこに必要な建物を造ってスタートしようじゃないか。毎月の研究費も私が負担するから、費用を計算 してくれないか」と促した。後で分かったことだが、その土地は、福澤が子女の将来のために用意していたものだった


福澤の大きさに圧倒され、勇躍の気構えを整えた北里は、そこに六部屋の小さな研究所を造った。そして、それを足場に研究陣を拡充し、やがてヨーロッパの大研究所にも比肩する北里研究所を設け、日本の伝染病研究の中心としての地位を築いていった


福澤が没して久しい1916年(大正5年)、北里は慶應の鎌田塾長から、医学科を新設したいとの相談を受けた。北里は即座に賛成した。「福澤先生から受けた恩顧に報いるのは、この時である」と。設立委員会の中心となり、準備を進めていった。


北里を知る前、福澤は慶應に医学所を設立したことがある。だが、経営不振のため短期間で閉鎖を余儀なくされていた。それ以来、医学科の設立は福澤の悲願であったが、生前にその夢を果たすことはなかったのだ。


そのことをよく知っていた北里から、「もし学校に経営不振が起こった場合には、北里一門を挙げて支えるつもりだ」と覚悟の表明があったことを塾長は述懐している。


1917年(大正6年)、北里は初代医学科長に就任した。そして十年余の在職期間中、給与その他一切の報酬を固辞し、報恩の精神を貫き、無償でその任にあたったという。


(監修/北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部長)


いいなあ、男気あるなあ。先人たちのこうした努力で今現在がるんだね。感謝。


「医療の挑戦者たち26 人に報いる。恩に報いる。北里柴三郎福沢諭吉

http://challengers.terumo.co.jp/challengers/26.html