「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「大人のための偉人伝 その2(エジソン、野口英世)」(木原武一)

 

子どもの頃、伝記って読んだよね。実は伝記や偉人伝というのは大人のためにある、というこの本には、本当に感動したっ!!!(・∀・)

 

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あまりに良いところが多すぎてフセンだらけになってしまったので、続編を。同じ本から2回載せるのは珍しい。そのエッセンスを紹介しよう。
 
エジソン 99パーセントの努力】
 
「天才なんていうものはない。ただ熱心に仕事をするだけだ」無線電信の発明者・マルコーニ)
 
・「(息子を発明家にするには)別に秘訣などありません。発明家になろうとしたら、私がやったとおりのこと、つまり、毎朝5時から夜の8時まで働き、昼飯には30分しか休まないようにしなさい」(ダイムラー
 
エジソンの晩年。夜中に工場が全焼する災難の際に、火事のすばらしい光景に見とれ近くに住む父親にそれを見せようと電話をかけ、火がまだ燃えている最中に、工場再建の計画をメモに記し、翌朝にはそのことを新聞記者に語り、そして、夜間の火事のばあい、煙に視野がさえぎられて消火活動が十分にできないことに気がついた発明家は、さっそく消防用の強力なサーチライトを考案したのであった。俗にいう、転んでもただでは起きない精神である。おそらくこれこそ彼が幼少の頃から培ってきた貴重な心性ではなかろうか。
 
また鉄鉱石を選別する独特の方法を考え出して事業をはじめたところ、鉄の価格の下落によってほぼ全財産を失ったことがあった。そのとき彼は「自分は今53歳だが、月給75ドルの電信技手の仕事ならいつでも見つけられる」と言って無用になった機械類や施設を使って、今度はセメント工場をはじめるという変わり目のはやさを見せた。報われない努力にどう対処するかというところに、その人間の素顔があらわれるものなのである。
 
「神が与えた問題には、必ずその解答を用意している」エジソンは、それは人間がパースピレーションによって見つけ出すものだと考えていたのである。
 
・私がとくに感心するのは、可能な時間のほとんどすべてを仕事に注ぎ、研究に夢中になると、周囲のことはもちろん、時間も場所も、ときには自分の名前さえも忘れることがあったという、その異常なまでの仕事への集中力である。これほど仕事に熱中できること、そして、そういう仕事を持つことができるということこそ、人間にとて望みうる最大の幸福ではなかろうかと思えるのである。「私は発明を続ける金を手に入れるために、発明をしているのだ」エジソンは言う。「仕事こそ、人生を楽しむ最上の方法である」と哲学者のカントは言っているが、エジソンはそれを十分に実践した人間なのである。彼の「99パーセント」という言葉は、そのことを言っているのである。
 
 
 
・彼の念頭にあったのは、医学者として名声を獲得するもっとも手っ取り早い道は何かということだった。順天堂病院時代、彼は医者としていちばん早く有名になるには細菌学を専攻することだ」と言っていたのである。当時の最先端を行く花形の分野であって、彼はそういう学会の動向を敏感に感じ取って、将来を設計立案していたようだ。
 
・当時、その名を世界に知られていた細菌学者、北里柴三郎のつくった伝染病研究所に入所したのも、その学問的野心のあらわれである。そして、彼は研究所に入って間もない明治31年こんなことを手紙に書く。まず、アメリカに渡り一年あるいは一年半はどここに滞在し、その後ドイツに留学して学位を取り、それからフランス行く、諸大家と有名大学を訪ねて学位を得てのち、医療機器等を買い入れて、名維持36年春、日本に帰り、東京に住む。わずか5年間で欧米をひとめぐりして、一人前の学者として日本凱旋しようというのである。誇大妄想というか大言壮語、性急にして野心いっぱいである。彼は親しい人には「将来は、陛下のお脈を拝み奉るほどの名医になりたい」ともらしていたほどだった。ともかく、彼にとって最大の関心事は、世間をアッと言わせるような大きいことをしたいということだった
 

やっぱり野口英世ってはちゃめちゃだよね〜いいなあ。天才だなあ〜!こういう破天荒なヒトに憧れるな〜!超オススメです。(・∀・)