幕末から明治維新の本はたくさん読んだけど、明治初期の頃の本は手薄だったかもしれない。ワタシの曽祖父母の時代だ。小野塚嘉太郎ジイさんの時代っていったいどんなだったんだろう?ということで読んだのがこの本。福沢諭吉の甥・中上川彦次郎の本。これがまたオモシロイっ!あの文明開化の時代の息吹が感じられるっ!!!
・ゼネコン大手の社史を調べていたとき、 ひどく気になる施主側の人物がいた。それが中上川彦次郎で、 彼はあるときは山陽鉄道株式会社の創業社長として、 あるときは三井銀行の専務理事(頭取にあたる)として、 またあるきは鐘紡の会長として登場した。かつての大新聞『 時事新報』の創刊までしていた。 こんことから興味が倍加されて資料を探索していくと、 抜群に恵まれた才能と家柄と時勢の運とが重なって、 短いながら華やかだったその生涯が、 まったくもって魅力たっぷりに見えてきたのだった。
・中上川彦次郎は、福沢諭吉に最も愛された弟子であり、 福沢の資金援助でイギリスに留学し、 帰国後に官界入りしてやがて外務省の局長に昇進し( このとき25歳)政変にまきこまれて退官すると、 福沢諭吉と協同で『時事新報』を創刊し、 経営が軌道に乗ったころに、三菱から誘われて山陽鉄道会社( 現JRA西日本の山陽本線を敷設・経営した)の社長に迎えられ、 神戸から福山まで開通させた段階で、 傾きかけた三井銀行の改革の騎手としてスカウトされ、 十年間にわたりその経営にたずさわった。しかも、 その非凡な経営の才は、これら全過程において、 常識では考えれないほどの実績をあげて見せたのである。
・中上川彦次郎は、 福沢諭吉の平等思想のもっとも忠実な実践者でもあった。 彼は権威をふりかざす者に対してはあくまでも抵抗し、 女性には手荷物をもってやり、 部下に対しては中元や歳暮を断固拒否し、 駅頭での送迎すらさせなかった。 すがすがしいまでに清廉で潔癖で、官尊民卑の時代風潮のもと、 汚濁にまみれがちな大企業の経営という場にありながら、 強靭な意志と独特な処世術によって、 その高潔な精神を貫き通した人だった。その死からおよそ百年、 右も左もエコノミックアニマルと化してしまった今のわれわれに、 この天才的経営者の生涯は、 さまざまな処方箋を示しているように思われる。
・『郵便報知新聞』は、スポーツ紙の現『報知新聞』の前身である。創刊は明治五(1872)年。当時「駅逓寮」といわれていた郵便局を拠点にして地方のニュースを集め、その配達網を利用して急成長して。国営の組織である郵便局を利用できたのは「駅逓頭(えきていのかみ)」の前島密がつくった新聞だからである。経営不振に陥ったとき『報知新聞』と改題して大衆紙に転じ(明治28年)明治の末から大正はじめにかけては、部数が東京で第一位にまで伸びたが、しだいに大阪の『朝日新聞』や『大阪毎日新聞』に押され。講談社に買収されたり読売新聞社に吸収されて一部『読売報知』になったり、独立して夕刊紙に鞍替えしたりした。しかし結局また読売新聞社に吸収されてスポーツ紙に転換(昭和25年)。今に至っている。
・「車掌」という今日では当たり前の言葉も、中上川によってつくられたものである。英語では「支配人」や「管理人」を意味する単なる「コンダクター」で「汽車の中の支配人」というのは、鉄道局ではこれを「車長」と訳して使っていた。山陽鉄道の開業に当たって中上川は民間の鉄道なのに「社長」と同じ発音なのは、はなはだおもしろくないからと、いろいろと考えた末に「車掌」をつくりだしたのである。
この頃、何かをやり遂げるって大変だったんだろうなあ。明治時代ってスゴイなあ。この大先輩たちのおかげで現代の私達がいる。感慨深く読んだ本。オススメです。(・∀・)