「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「赦す人」(大崎善生)

SMの帝王とも、谷崎の再来とも言われた鬼才・団鬼六氏(本名:黒岩幸彦 1931.4.16 108-8-025-789)

氏の人生は豪快だ。壮絶だ。凄まじい!そしてこのノンフィクションは、私が読んだ本の中では文句なしに今年のベスト3に入る傑作だ。


「事実は小説より奇なり」というが、まさにそのとおりである。純文学からSMものを中心とした官能小説へ。そして誰よりも将棋を愛した。『「鬼」と名乗った男は、何があっても、無限のやさしさで全てを受け入れた。夜逃げ、倒産、栄華と浪費、また夜逃げ。団鬼六の波乱万丈の生涯は、常に純粋さと赦しに貫かれていた。伝説の真剣師と交わり、商品相場を追い、金を持ち逃げされ、妻の不倫に苦しみ、その全てから小説を産んだ。出生から最期の日々まで、「異端の文豪」の唯一無二の人物像を描ききった感涙の長編ノンフィクション』そのエッセンスを紹介しよう。


ここ数年でいったい何億円が消え失せてしまったのだろう。七億円の価値があるといわれた横浜桜木町の三百坪の大豪邸、鬼六御殿は、バブルの影響で二億円の売値、その差額となる幻の五億円が、64歳の初老の域を迎えた男の方にどっしりとのしかかることになったのである。作家としては自殺行為とも言える断筆宣言から七年。『将棋ジャーナル』という老後の道楽ではじめたはずの雑誌に振り回されひたすら現金を注ぎ込み、ほとんど何の見返りもなく、崩壊したバブルに足を掬われながらただ坂を転がり続けるような日々だった。地下の部屋には木馬や吊るし道具といった撮影用のSM器具も粗大ゴミとして処分するだけで400万円を費やした。自慢であった刀のコレクションのほとんどが贋作と鑑定された。「マゾじゃなきゃああんなことやってられませんわ」と鬼六はいつか私にぼやいて見せた。


・(関西学院)大学最後の二年間の鬼六の生活ぶりは聞くだに凄まじい。女との同棲。友だちや親戚への借金巡り。雀荘や将棋道場に入り浸ってはアルバイトに精を出し、集めた金はすべて商品相場に吸い上げられ、父と交代で家出を繰り返す。募るばかりの借金。鬼六にとって父・信行の存在は薫陶や影響というものを大きく超えた自分の人生を狂わせるものとなっていた。


「自分が書いたものは小説なんて呼べるような代物ではなく、単なるくだらない強姦エロ小説ですわ」とも発言している。そんな「オナニー用」の「くだらない強姦エロ小説」がこんなにも人々に受け入れられ続けた理由は果たして何なのだろうか?そう、希望の言葉なのだ。団鬼六にとってSM小説とは切なる希望の言葉なのだ。欲望でなく希望、そこにもしかしたら他の作家とは違う鬼六文学の持つ、潔癖な雰囲気の秘密があるのではないだろうか。だから鬼六の書くSM小説には仄かな光がある。それはおそらく、少年のような希望の言葉だけで物語のすべてを紡いでいるからなのではないだろうか。ともすれば陰惨かつ酸鼻な物語になりかねないSM小説を、希望という包装紙でくるむことによって、鬼六は小説に誇りや気高さを与えることに成功したのである。


体力があって仲間がいる限り金を浪費し続け、それでも飽き足らず相場に不動産に刀に雑誌発行にと湯水のように使い続け、最後にはすべてを失ってしまう。見事という他ない。何という欲のない、鮮やかな人生。百万稼いだら百万円使う。一億円稼いだら一億円使う。あるだけ使ってしまうのは同じことだ。鬼六はいつも、「さあ、パーッと行きましょう」で終わりなのだ。


・鬼六語録のひとつに「愛人は車のスペアタイアのようなものだ」というものがある。パンクしたらすぐに取り替えられるように常時用意していなくてはならない。どのタイヤがパンクするかわからないので、二、三本はあったほうがいい。つまり鬼六にとって愛人がいない生活というのはスペアタイアなしで車を走らせているのいと同じということになる。「そんなの危なくて、よう運転できんやろう」と鬼六は私を見てニヤッと笑ったものだった。


・私はエロの中に本当に鬼六が求め、追いかけ続けていたものの正体がまるで大きな闇の中にほんのりと輝く蛍のように見え隠れするような気がしてならないのだ。それは夫婦という愛である。そして夫婦の愛の脆さである。それは人間関係そのものであり、同時のその脆弱さである。鬼六はおそらくこう考えいてる。脆く壊れやすい人間と人間を結び続けているものこそが性行為なのではないだろうかと。鬼六にとって性行為を描くことは人間と人間のつながりを描くこと、あるいはそれを求めることに他ならなかった。いくら観察しても考察しても興味がつきない人間という愚かでそして愛おしい生き物、それをより際立たせずにおかないのは、生殖以外を目的とした性行為という行いだったー。そこの鬼六は人間の儚さを見た。だから鬼六はエロを書き、エロ映画を撮り、そうすることで人を愛し続けようとした。いつもどの時代もどんな時間も、死のほんの間際まで、それは鬼六にとって純粋な希望であり続けたのである。


「遊べるうちに遊んでおけ」というのは鬼六の口癖だった。「あれが元気で役に立つうちは遊んでおかな、役に立たなくなってからではちっとも面白くないわ」「快楽なくして何が人生か」それが晩年の鬼六の旗印となった。


・「この歳になって透析まで受けるようになったんやけど、こんな病気になってしもうて思うんやけど、結局のところはまだ遊び足りんのや」「遊び足りない?」「うん。まだ全然。もっともっと遊びたい。色んな人と色んなことをして」間違いない。鬼六はこの世界を隅から隅まで愛しているのだ。この世に生まれてきたことを誰よりも歓び、まるで世界中を子供が遊ぶ砂場のように愛おしみ生きてきたアホもいる。詐欺師もいる。変態も山ほどいた。ヤクザもいれば刑事もいた。小池(重明)のような食い詰めた真剣師もいれば、将棋指しに相撲取り、役者に噺家に編集者。鬼六の手形を盗み出して挙げ句の果て自殺したヤクザまでいた。しかしそれらのすべてを鬼六は受け入れ、赦し、そして時には人に自慢さえした。僕のところにこんなしょうもないヤクザがいるんですわ。買った刀はみんな偽物でしたわ。五億円、飛びましたわ。女には必ず浮気されました。私の頭の中にはそんな鬼六の言葉が渦巻いている。


・5月2日、鬼六の様子はおかしくなっていた。もう一歩たりとも動けない。「胸が苦しい。声もでえへん。ほんま、お世話になりました。いよいよご臨終ですわ」と掠れた声で呟いたという。鬼六は死を覚悟していた。今度入る病室が自分の死に場所だと理解していた。そこへ向かうタクシーがやがて家に着く。「タクシーが来ましたよ」という妻・安紀子の声が玄関から響いている。それを耳にした鬼六はいよいよ来たかというように力強く膝を叩き、「よっしゃ」と大きな声を上げて立ち上がった。それから大きく息を吸うと一言「さよなら!」と誰に向かってでもなく言って、部屋を出ていったのだった。何の迷いもない。何の未練もない。潔く死に赴く最後の姿は、まるで武士のように娘・由起子の目に眩しく映った。


その他、現役中学教師が学校でSM小説を執筆するという伝説、「新宿の殺し屋」小池重明とのドラマ、69歳の時の23歳の最後の愛人の自死など。スゴイなあ。映像化して欲しいなあ。しかし、著者の大崎善生氏にの筆力にグイグイ惹きこまれる。文句なしの傑作!絶対読むべし!(・∀・)




「快楽なくして何が人生」(団鬼六)

団鬼六 オフィシャルブログ