「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『悪名の棺 笹川良一伝』(工藤美代子)

   


悪名の棺 笹川良一伝 (幻冬舎文庫)


生前、「日本のドン」と呼ばれた笹川良一氏。(^J^) 

それだけではない。悪名のレッテルはファシスト」「日本の黒幕」「ギャンブルの胴元」「戦後のフィクサー」「競艇屋の怪物」など枚挙にいとまがない。金儲けの天才で、二十代後半で時価換算に従えば、三十億近い巨万の富を築き、人から給料をもらったことは一度もない「右手で儲けた汚れた金を、左手で慈善事業に使う」といった書かれ方をした回数などは数え切れない。


ところが、実際の笹川は、「メザシを愛し、風呂の湯は桶の半分まで。贅沢を厭い、徹底した実利思考と天賦の才で財を成すも、福祉事業に邁進し残した財産は借金ばかり。家庭を顧みず、天下国家、世のために奔走。腹心の裏切り行為は素知らぬ顔でやり過ごし、悪くは“有名税”と笑って済ませた。仏壇には、関係した女の名が記された短冊を70以上並べ、終生、色恋に執心した。人生の後半はハンセン病の根絶に命を捧げた日本の首領の知られざる素顔。書き下ろしノンフィクション」


そのスケールの大きさと行動力、「英雄色を好む」を地で行く驚異的なバイタリティには恐れ入る。そのを紹介しよう。


笹川良一は、最晩年になってもビルの非常階段を十階くらいまでは平気で駆け上がっていた。随行する職員はかなわない。


・笹川少年に進学を勧めたが、『勉強はもっと大きくなってから、勝手にやるわい。学校で勉強するより、世の中に出て、いろんな生きた勉強をする方が、ずっと面白いわ』。笹川が子供たちに語った言葉、『学問などしなくていい。社会勉強は俺が教えてやる』


『この子はわてらの子や思うてはいまへん。どうぞ、世のため人のためになるような子に遠慮のう躾けておくんなはれ』と浄土宗・称念寺に預ける。良一15歳(大正三年)


・米相場で儲けた膨大な資金は家計には回らず、すべて国粋大衆党の活動に費やされたいた。


笹川の特徴は一切の公的役職、つまり権力の座に座らないことだった。後年、昭和17年の翼賛選挙に出て衆議院議員になるのだが、それとても非推薦候補だったために東条内閣から一銭の費用も貰わなかった。


・民間パイロットの育成を目的にした国粋義勇飛行隊結成へと進む。もちろん笹川本人が隊長で、自前の飛行機を二十機持った。
「ご依存なければすべてを軍に献納してお国のために役立てとう思います」結局笹川は、せっかくつぎ込んだ建設費も度外視して。大阪城内にある第四師団司令部へ出向き献納を申し入れた。第四師団長寺内寿一中将が、「笹川さん、これは近年まれな篤志ですな。勲章ものだよ」というと、笹川は「勲章なんてものは要りません。それじゃこの件は流します。後で勲章欲しさに笹川は軍に取り入ったなどと言われては迷惑ですしな」


・親交があった山本五十六から「女漁りが性分というのも違う。米びつより天下国家にお金を使う笹川は、自分の溢れるような勢力の持っていき場が、それ以外になかったのかもしれない。
いったい女は何人いるのかね」「決まっているだけで東京、大阪やな。ほかにもあるけど」「ほう、君は愛をどういうふうに分配するのかね」「私はたった一人に愛を与えますねん」「いや、計算が合わんな。もし三人だとすれば三分の一ずつじゃないのか」「いや、西へ行ったら浜松を境に東京の女は忘れる。西の女に愛のすべてをくれてやる。東京へ帰ってきたら、大阪のことはすべて忘れて東京の女に愛情を注ぐんや」


・息子たちが小さかったころから、笹川最晩年まで、「水の無駄遣い」禁止令は徹底したものだった。「おい、桶に水をジャブジャブ流すな。半分あれば顔は洗える」「湯船の湯を外へ流すな、もったいない」「いいか、湯に入るとき水は風呂桶の半分までで十分だ。二人一緒に入ればそれでちょうどいい。いい湯だ、なんていって湯を流すバカがいるがとんでもない」


・ちり紙の使用量については。『なんで一枚でかまんか。二枚あれば二回も三回もかめるじゃないじゃ』


・喜代子が、「たまにはお父さん、子供たちにおいしいものを食べさせたいわね」などと言おうものなら大変である。「ナニをぬかすと。早死にしたければ食え。長生きしたけりゃ粗食が一番だ」


・『おれはね、人から金を貰ったことはないんだ。人に金をやる方じゃ。自慢じゃないが、金庫の中にはいつも五十万や百万の金を入れとる男や。見そこなうな、このバカ野郎めが』


・「世界は一家 人類みな兄弟姉妹という考え方の基礎を固めたのは、四十年前(昭和六十年時)」巣鴨プリズンに入獄直後である。そんな荒廃した風景の中で、私はハタと思った。人間が生きるために必要なのは、最低の食料と水と空気だ。私の悲願は、この地球上から戦争と貧乏と病気、不平等を追放するところになる。今目の前にある重要課題は、ハンセン病(ライ病)の撲滅だ」


・笹川は特にBC級の戦犯とその留守家族の支援をポケット・マネーで続けたのだ。しかも彼は自らそれを公言するような行為すらしなかった。

笹川が、巣鴨プリズンの収容者に対して着手したのは、新聞、ラジオ、蓄音機、レコードなどを大量に差し入れることだった。さらに服従者の留守家族が巣鴨を訪ねる際の旅費の工面から、貧窮者には生活費の面倒まで幅広い援助を展開した。その資金調達のため、笹川は出所するや精力的に動き出す。残されていた不動産の売買や株、商品取引などでたちまちかなりの資金を獲得し、それらを原資とした。生活支援を受けた地方の留守家族や、モンテンルパなど海外からも多くの礼状が届き、笹川家には三千通以上も残されていた。この手紙を読めば、笹川の活動がいかに個人的善意からのみ発していたかがよくわかる。当時は、まだ米国の戦犯的意識極めて強く、いやしくも日本人で、そのような運動をするものは反米活動と睨まれ、再び巣鴨へ送られる恐れさえあり、大っぴらにやれる時代ではなかった。笹川は、好きな酒と煙草を断ち、七十七の老母堂と夫人、これに兄弟・子分まで総動員で、運動にうちこんだ。


「俺はお前たちには一切は財産は残さん。なまじ残すとろくなことにならない。財産を残さないという教育が俺の財産だ。よく覚えておけ」


小石川の家の仏壇には笹川の両親の位牌と並んで、過去に愛した女性の名前が短冊にずらりと書かれ奉られているのはよく知られた話だ。仏壇の短冊は当初七人だった。実際、最晩年には七十人近い名前が並んでいた


・笹川七十五歳のとき(昭和49年)、ハンセン病撲滅のために強い覚悟を決めた。幅広い専門家の知識や協賛を得ながら、笹川記念保健教育財団を立ち上げたのだ。それは彼の後半の人生の大部分を占めるものとなっていく。


パラグアイハンセン病施設への慰問。大使は明日の観光の予定を立てていた。ところが笹川は観光なんてまったく興味なし。翌日のスケジュールを変更したイグアスの滝なんか遠いだけで面白くない。ただ水が落ちてるだけだ。それより孤児院を探せ。それでな、菓子をいっぱい土産に用意しろ。問屋で買えよ。同じ額でたくさん買える。包装紙は要らんぞ、段ボールでいい」と翌日は何カ所か孤児院回り。その次の日はハンセン病施設へ朝早く出かけました。ジープで山道を三時間も行くような山奥にあります。

患者が三、四十人ほど並んで出迎えていましてね。会長は一人ずつ手を差し出して握手したり抱いたりするんですが、患者さんの中には気兼ねして手を引っ込める人もいる。見るとね、手首から先がないんです。ほとんどの人が指なんかない感じだったのですが、会長は一向に構わず手を取って握るんです。みんな感激しまして。涙を流す老人とかいました。『頑張ってな、必ず治るから』


・ところがここにもう一人、笹川の生涯の記録にこれまで一切登場しなかった女性が現れ、いま初めてその存在が明らかになった

笹川79歳、大津法子38歳。昭和38年夏に出会ってから笹川のほぼ最期まで実に三十年以上続いたこの関係は、不思議なほど秘密のヴェールに固く覆われてきた。


小石川の家は大きいとはいえ、雨漏りさえし始めているような古い代物を買ったのだ。雨が降れば金だらいやバケツが数個並ぶのは当たり前の光景だった。それでも本人は平気なのだ。「雨漏りで死んだ奴はいないから心配するな」が口癖だった。


笹川陽平氏はいう
「入院してしばらくは余裕があってね。看護婦さんがお風呂に入れてくれるんですが、それを楽しみにしていました。『ああ、キミにこれだけ体を洗ってもらって、何のお返しもできなくて残念だ。ボクがもうちょっと若かったら、キミをちゃんと抱いてあげたのに』なんて軽口を叩くんですから。そう、主治医は日野原重明先生でした」

「しっかり仕事せいよ。あの世に行けばサンデー毎日だからな、生きているウチは一生懸命働け」


スゴイ…こんなデカイ人が日本に存在していたなんて。尊敬する人に一人に挙げさせてもらおう。超オススメです。(^J^)


   


悪名の棺 笹川良一伝 (幻冬舎文庫)