ワタシが大尊敬申し上げている日本船舶振興会(現・日本財団)をつくった笹川良一氏。こんな生き方できる人が他にいるのだろうか?すごい、すごすぎる!何度かこのブログで紹介したが、この本は、徳川家康の山岡荘八氏による評伝。そのエッセンスを紹介しよう。
・母テル「良一、ウソと悪いことはな、人の見ておらんとこでして、必ず人の見えるところへ現れるもんや。どんな内緒でやっても、必ずバレる。嘘をつくような奴は人間のカスや。よう覚えとけ。笹川家にはな、ウソをつくようなもんは、一人もおらんのや。目上の者を敬わなくちゃいかん。兄妹仲良くし、朋友を信じ、人には親切にしなくちゃいかん」
・「お前の躰は、お父さんと私で作ったのやが、お父さんは早う亡くなっておらんのだからお前の躰は、ただいまそっくりお前にあげます。思う存分、日本のためにお役に立てなさい」
「私も祈願して毎日お百度を踏むから、お前も全員が釈放されるまで、禁酒禁煙を誓いなさい」と良一に求めた。
「はい。今ここではっきり誓います。今後は政治から一切手を引いて、不幸な人たちのために、僕の生命を捧げます。自分の生命はすでに巣鴨でお国に捧げてきました。出所してからの生命は僕のものであって、僕のもんじゃありません。不幸な人々のために、戦後のために役立てる覚悟でいます」
母テルは、息子と誓いを交わすと、自分の古希の祝いに子供たちや知己から贈られた記念品のすべてを売り払って、2500人の残留巣鴨人全員に甘い汁粉を差入れして振る舞った。昭和20年代、砂糖が貴重であったことはいうまでもない。巣鴨にあって絶望しかけていた人々が、一ぱいの母性愛に、どのように勇気づけたことか。母と子の無償の献身は、物資の潤沢でない、人心の酷薄な世相のなかにあって、戦争に痛めつけられた人々にとっては、闇夜の星にも等しかった。
テルの氏神への日参は、昭和32年ごろまで、雨、雪が降ろうが、嵐が吹こうが、休みなく続けられた。その頃にはまだ500人ほどの人が、巣鴨に残っていた。「あと、どのくらい残っておられるのかの」そういいながら、母テルはついに病に倒れた。昭和33年1月17日、享年82歳であった。眼を閉じる前に、テルは笹川を枕元に呼び、「私の葬式は、みんなが出所するまでしてはなりません。葬式が、早よう出せるようにな……」と命じた。遺言どおり、葬式が出せるようになったのは、その年の6月17日の命日であった。
・わしは朝5時に起床、5時半から6時までトレーニングパンツをはいて、自宅の周辺をマラソン、この日課は欠かさない。6時半に朝食、夏みかん一個とワカメの味噌汁を一杯だけだ。美食は腹をこわし、骨を弱くする。いつも腹をへらしておくと、何を食ってもうまい。健康法にはこれが一番や。牛は草ばかり食っとるが強いでしょう。ライオンは肉を食うが、長生きしないよ」彼の持論である。
・山岡荘八「笹川の売名になるような本にはせんでくれ。私は、毎朝夕、この地球上の人類、獣類、鳥類、生ある者すべての無病息災を祈願している。私を書くなら、読んだ人がこの厳しい時代に人生に希望を持ち、いかに辛くとも生き抜く活力と知恵が身につく内容にしてほしい。そのためには、一切虚飾を排し、自分の良い事、悪い事すべて、ありのままにに書くこと。ー」
・「君の考えのほうが、あるいはわしの考えにくらべて正しいかも知れん。しかし、とにかくわしの言う通りにしなさい。してから、若しわしの命令が間違っていたら、そのとき、君の考えを述べたらよろしい。それが、君の立場上とるべき道だよ」。知識人の欠点は、その優柔不断にあり、笹川のような現実社会のなかで、いわゆる「生きた学問」をしてきた体験主義者には、動物のような直感力と強靭さがある。それが彼の自信につながるわけだ。
災害続きの日本。笹川氏はあの世からどんなふうに見ているのだろうか。今、氏のような人が求められている。超オススメです。(・∀・)
以前紹介したこれらの本も再読したい。