「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「宿命の子 笹川一族の神話」(高山文彦)


宿命の子


この本はスゴい……今年読んだ本のベスト3は間違いないだろう。ワタシが尊敬してやまない「日本のドン」こと笹川良一と父・良一を支えた三男の笹川陽平日本財団会長の、父と子の物語そして「復讐の物語」なのだ。


「1899年に生まれた笹川良一氏は戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監。48年の釈放後、51年のモーターボート競走法制定に尽力、全国モーターボート競走会連合会、日本船舶振興会を設立し、会長に就任。競艇の売り上げの一部を慈善活動に使う集金システムは、「右手でテラ銭を集めて左手で浄財として配る」と揶揄され、90年代にはメディアが“笹川帝国”批判キャンペーンを繰り広げた。ロシアの沈没船引き揚げに大金を投じるなど、暴走を始めた晩年の父を陰ながら支えた陽平氏は、父なき後、父が特に心血を注いできたハンセン病制圧活動をライフワークに据えた。ジャングルの奥地など世界のあらゆる場所に自ら赴き、薬を届けて啓蒙活動に身を捧げる陽平氏の姿を、著者・高山文彦氏は「これは大いなる復讐の物語だ」と捉え、数奇なる父子の人生を綴ったのが本書」そのエッセンスを紹介しよう。



「人間は医学的に120歳まで生きられるのだ。だから自分は200歳まで生きて、人類三世代にわたってお世話をしたい」世間からみれば素っ頓狂とも大風呂敷ともされる話を大まじめに公言していた笹川良一は、その公約を果たせず96歳で死んだのだ。


ロックフェラー財団を凌ぐ世界に類例を見ない巨大な慈善財団とその合理的な集金システムをつくりあげた良一は、たぶん天才であったのかもしれない。彼が過去の悪名を断ち切るように慈善家としてその才能をいかんなく発揮したのは、旧約聖書の時代から世界各地でもっとも手酷い仕打ちをうけてきたハンセン病者を癒す活動においてであった。彼はハンセン病撲滅のために多額の資金を世界保健機関=WHOに提供し、みずから世界各地を訪れてはハンセン病者の実態をまなこに刻み、励ましつづけた。じつは、こうした振付をしたのは、すべて陽平の手腕によっていた。陽平は、悪名祓いの使命をみずからに課していたのだ。


「子孫に美田を残さず、と大西郷が言うとる。わしも一銭も渡さん。おまえたち子孫に残すのは、借金の山だ」と良一はかねがねこのように言っていたので、覚悟はしていたが、まさか40億円もあるとは思っていなかった。


・「会長はつねづね、こう言っていましたから。いまの人間は家族が死ぬまではお医者さんに、助けてくれ、助けてくれ、と命乞いするのに、死んでから病理解剖させてほしいと医者に了解を求められると、もうこれ以上死んだ者を痛めつけないでくださいと言って、遺体を持ち帰ってしまう。不眠不休で医者や看護婦が面倒を見てくれたというのに、これじゃあんまりだ、と。外科手術をしたあとがどんなふうに変化したのか、よくなったのか、悪くなったのか、あの手術の仕方で、やっぱりここが不味かっただろうと反省することも大事だろう。医学の発展のために解剖ぐらいさせてやったっていいじゃないか、と本人常々そんなふうに言っていましたので、どうぞ解剖してください」


・良一は人体の解剖を見ることを好んだ。「人間は死んだらただのブツだと。だから生きているあいだは精一杯生きようと」。死亡が確認されてからせめて24時間ぐらいは体を傷つけずに一緒にいてやりたいというのが家族の心情かもしれない。でも良一は解剖について、陽平にこのように言っていた。「すっかり冷たくなってから解剖したって、なんの意味があるか。魚だって鮮度が大事だろう。湯気が立っているうちに解剖しなかったら、医者も勉強にならんだろう」きっと自分の母親のときも、死んですぐに解剖したに違いない。


「世界のために働いてくれよな、というのが最後に聞いた言葉でした」


・「私の仕事……人生の根幹を突き動かしているのは、差別にたいする怒りです。私にとってその原点とはなにか。それは父笹川良一をめぐってのことなんですよ。戦後最大の被差別者はだれだと思いますか……私にとって、それは笹川良一をおいてほかにありません。40歳からの私の人生は、彼がうけたいわれなき途方もない差別、その汚名を晴らすことにあったんです


・日本のジャーナリズムは笹川良一について、右翼の大物で、A級戦犯で、賭博の胴元として人様から巻き上げた大金を使って慈善事業をし、金銭欲と名誉欲を満たしている、なんて随分書きましたよ。私は親父が健在だったとき何度か、裁判に訴えましょうと申したんですが、あの人は平気な顔で、おまえ、なにを言っているんだ、書いている連中だって女房子どもを育てなきゃいけないじゃないか、生活があるんだぞ、と言って涼しい顔をしている。やはり訴えるべきだったと思いますね。訴えなかったから、笹川のところはなにを書いても大丈夫だということになって、ジャーナリズムをつけあがらせてしまいした。


・「私はね、ハンセン病の人たちもそうですが、こういう村で暮らしている人たちと接するたびに、死というものを受容して生きている姿に驚くんですよ。日本人もむかしはそうでした。いまはどうですか。死を恐れ、だれよりも長寿であろうとし、病気になればジタバタして、人によっては自殺したりする。文明の進展は悪いことではないかもしれないけど、日本人は便利さと引き換えに、なにか大切なものを失ってしまったようですね」


・笹川勝正「笹川良一という人は、鬼みたいな親父ですから。それはまあ、ひでえもんですよ。親としては最低だな。人間としても点のつけようなねえな。だけどね、他人の子も自分の子も同じように育てたんだ、あの親父は。新聞に載った陽平と同じ齢くらいの不幸な男の子を記事を見て、親父がその子をひきとって、陽平と同じ下男部屋で書生として育てたんだ。その子は早稲田大学を出て、新聞記者になりましたけどね。自分の親父をそこらの物差しで測ろうって無理だよ。薄情だよ。おれが入院したときだって、見舞いに来やしねえんだから」


・良一「自分はむかし米相場でかなり大儲けをした。戦後も株で大儲けしたが、しかし自分にとって金儲けは人生の目的などではない。金儲けというのは、ある目的を達成するための手段として必要なものだが、目的になってはいけないのだ。自分は健康で、長生きをするだろう。しかし自分自身の健康を自分だけで独占してはいけない。健康な人間は、健康に恵まれない人のために働くことが肝要だ。自分は自分の子どもや孫のために生まれてきたのではない。人様のために生まれてきたのだ。」


・(北朝鮮の)迎賓館に案内されると、テーブルの上にご馳走と酒が並んでいた。「せっかくですが、私はお国の食糧事情が非常に深刻だと聞いている。こんな立派なご馳走をいただくわけにはいきません。人民のみなさんと同じ、一日150グラムの雑穀の粉だけで充分です。お国の食糧事情を、ぜひ私に見せてください。それも私の今回の大事な目的なんですから。飢えに苦しんでいる人たちとせめて同じレベルで食事をさせていただかないと、どんなについらのか見えてきません。こんなご馳走をたらふく食べて、お酒までいただいたうでで、食うや食わずの方々をお見舞いするなんて、とてもそんな心境にはなれません。私たちの気持ちもどうか察してください。」


……スゴい……社会貢献というのはこういうことを言うのだろう。ここまで世のため人のために尽くすことができるだろうか…。明治大学の先輩というのもご縁だ。素敵だ。超オススメです。(・∀・)



宿命の子