「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『手塚治虫 知られざる天才の苦悩』(手塚眞)

マンガ界の巨匠、手塚治虫氏。(^u^) 今でも時々読む。私のipadには、ブラックジャックの全作品が納められているのだ。何度も何度も読み返しても今なお、感動がある。さすがだ。(@_@;)


さて、この本は、ご子息の眞氏が見た、手塚治虫の素顔とは!?が赤裸々に書かれている。独学である自分の絵に対するコンプレックス、子供マンガに向けられた“悪書追放運動”、「虫プロ」の倒産…さまざまな批判や苦難を乗り越えながら、常に新しいエンターテインメントに挑戦し続けてきた手塚治虫。父として、天才マンガ家として、また同じ表現者として著者が見た真実の手塚治虫を語る。そのエッセンスを紹介しよう。


手塚治虫。本名、治。もし、いま、治少年がいたとしたら、ずばり「オタク」と呼ばれたことでしょう。悪い意味ではなく、専門的(マニアック)にこだわるということです。治少年の興味の対象はとても広かった。とにかく好奇心が旺盛。いろいろなものに飛びついては、徹底的にこだわって極めようとした。芝居から天文学、それから昆虫、アニメ、映画、そしてなによりもマンガ。マンガが描けるということが、周りとのコミュニケーションをとるうえでとても役立っていたはずです。


・祖父は法律家の息子、祖母は軍人の娘。二人とも趣味人で、いわゆるモボとモガでした。この二人が特に好きだったものが、マンガとアニメーションだったのです。家に映写機にあって、子供のころから自宅でディズニーなどのアニメが観られたというのだからかなり裕福な家です。マンガも何百冊も揃っていた。このようにマンガとアニメの出発点が家にあるという環境は、治少年にとってはまたとないものだったのです。


・父は家の中ではマンガやアニメを楽しみ、天文学に関する本や世界の名作文学を読み、家の外では昆虫に親しみ、プラネタリウムに行き、母に連れられて宝塚歌劇団を観るなど、父の少年時代を振り返ると、これらのことすべてが、後年、人が驚くほどの博識な作品作りに結び付いていることがわかります。


父は完璧主義。プロになってからも、父は自分で納得できないと徹底的にこだわって書き直しています。たとえ締切に間に合わず、出版社に迷惑をかけることになったとしても、完璧主義を貫き通した。


・父を語るうえで外せない独特の絵は、独学で身につけたものです。田川水泡さんののらくろ横山隆一さんの『フクちゃん』をひたすら模写する。昆虫や身の回りにあるものをていねいにデッサンする。友だちの似顔絵を描く。こういうことをしているうちに、父自身が納得できる絵が描けるようになったのです。ところが、「君はデッサンがなっていない」という先輩のひと言で一生、独学であることにコンプレックスを持ち続けています。ピカソは小さい時から天才としか言いようがないほど絵がうまかったといいます。しかし、父は、そこまで神童では なかった。ただ、マンガが好きでずっと描き続けたことが、そのまま天才への道につながったのです。


・プロになってから出版した『新寶島(しんたからじま)』酒井七馬さんと共作)が関西を中心に四〇万部も売れ、ベストセラーになった。しかし「こりゃ、マンガの邪道だよ。こんなマンガが流行ったら一大事だ。描くのはあんたの自由だが、あんたひとりにしてもらいたいね」「こりゃひどい。君がデッサンをやっていないことがはっきりわかった」と言われてしまう。この本は、父が子供のころから誰の指導を受けることなく好き勝手に描いてきたスタイルで描いています。非常に自由度が高い。この自由度が、当時のマンガ家とまったく違うスタイルをもたらしていた。自分のスタイルを貫き通しながら東京に出てはたたかれ、へこまされたという経験があったからこそ、闘志を燃やして描き続けることができた。父は結局、「好きなことをやりなさい」という母親のひと言に背中を押され、東京に出て本格的にマンガ家の道を歩み始めたのです。


映画的手法と悲劇性の導入のふたつが手塚マンガの大きな柱です。このふたつを入れただけでマンガはまったく変わったのです。なにより新鮮だったのは、普通は子供向けマンガには描かないような教養知識をあえて挿入したことです。手塚治虫は作品を単なるマンガとして読者に与えるのではなく、手塚治虫ワールドとでも呼ぶべき世界に誘い込むます。


・父は、読者である子供たちを喜ばせるためなら、どんなことでも描きました。その良い例が、子供マンガでは当時タブーといわれてきたキスシーンやヌードシーンを描いたことです。当時、手塚マンガを読んだ子供たちは、そんな場面に本当にドキドキしたそうです。強い印象を残しました。


・きれいな絵を描いている傍からとんでもないギャグを入れて、それを壊してしまうということもよくやる手です。とても同じマンガとは思えないくらいの落差がある。その落差こそが手塚作品の魅力、面白さなのです、ストーリーの飛躍にしても、夢のような話と現実や人間のリアルな感情とギャグを混在させる。


ブラック・ジャックの半分白い髪の毛も、ほとんど偶然の産物です。それは最初は、黒い髪が光る輪郭のつやにすぎなかったのです。長期連載が決まって、主人公のいでたちを説明しなかればならなくなったとき、こじつけで経歴を捻り出しました。


・父はたいていのマンガを巧みに描くことができましたが、残念なことにスポーツものだけは苦手でした。それは父自身がスポーツをあまりやらない、運動が苦手な少年だったからスポーツに興味がなかったのかもしれません。


・父は異様なライバル心を持っていました。横山光輝さんが父に憧れ、父のマンガの描き方をお手本にしてマンガ家になった一人です、その横山さんが同じ雑誌で鉄人28号を描きはじめると。たちまち「鉄腕アトム」の人気を抜いてしまった。すると父は「モノマネだ」と罵倒する。あるいは、石ノ森章太郎さんがユニークな連載を始めると「あんなものはマンガではない」と酷評したり、巨人の星が人気になると、父はその本をアシスタントに読ませ。「どこが面白いか言ってみろ!」と迫ったと言います。まったく大人げないほどライバル心を燃やすのです。


・父は生涯現役で、40年間も第一線にいましたから、自分の子供のような後輩たちと一緒に同じ雑誌に載ることは日常茶飯事でしたが、後輩にしてみれば大巨匠と同じ雑誌に載せてもらえることは光栄の至りなのでしょうが、父にとっては全員がライバル。しかも、その時々のブームというものがありますから、いかに手塚治虫であろうとも常に雑誌のトップというわけにはいかない。それが悔しくて負けてなるものかと、なおさら一所懸命描く


父は人生のすべてをマンガに捧げました。手塚治虫のすべての作品―質が高く膨大な量の、父のマンガ一作一作―に生命が宿っている。それは父が自分の生命そのものを、マンガに、仕事に与えたからにほかなりません。そして父の生命は、マンガとともに生き続けています。それを読む皆さんの心の中にも。永遠に。


手塚治虫は永遠だ。これからも読み続ける。不滅だ!(^u^)これらも読んでね。


BOOK〜手塚治虫の素顔と創作の秘密!… 『神様の伴走者』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20110131

BOOK〜「鉄腕アトム」に隠された21世紀の衝撃…『手塚治虫の大予言』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20071205

BOOK〜手塚治虫ブッダ 救われる言葉(講談社
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20070430