「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜クセをどう生かすか?…『宮大工の人育て』(菊池恭二)

宮大工の人育て (祥伝社新書 104)

宮大工の人育て (祥伝社新書 104)

またまたユニークな本に出会いました。(^v^)法隆寺の鬼」と言われた故西岡常一棟梁のもとで薬師寺の金堂、西塔の再建建立に携わるなどして社寺建築を学び、宮大工の道を歩くようになった著者が語る宮大工の人育ての本。どうすれば人は育つのか、育てられるのか。そのツボとコツを紹介しよう。


・宮大工の心、それは、一言で言えば、「木の命」「木の心」を知り、それを「生かす心」です。
木は、雨に打たれ、冬には雪で押し潰され、春になると雪が溶け、傾いた木は起き上がり、毎年右に倒れたり左に倒れたりして、上へ上へと少しずつ伸び、成長し、やがて一本の大木になります。最初から真っ直ぐなどありません
社寺建築では、そうやって気の遠くなるような長い年月をかけて育った、それこそ樹齢数百年〜千年以上という大木、巨木が御用材として使われます。森の精霊が宿るような神々しい(こうごうしい)ばかりの木の命を頂戴し、寺や神社を造るのです。何と有り難いことかと手を合わせ、感謝する。そして古建築の粋を集め、精魂を込めて、それらの大樹が刻んだ年輪に匹敵するような新たな命を御用材に吹き込み、数百年〜千年以上の風雪に耐える社寺を建立する。あるいは修復する。それこそが私ども宮大工の努めです。


・大事なことは、「木の癖」を読み、上手に組み合わせて使うことです。これをうまくやらないと、年輪に見合うだけの長寿を御用材に吹き込むことができません。山の木は一本一本みな違います。これを「木癖=きぐせ」と言います。
宮大工の大切な仕事の一つに、その癖を見極め、建物のどの部分にどう使うか決めていくことがあります。
これは「人」を育て、使うことにも通じます。木がそうであるように、人もまた一人として同じ者はおりません。みなそれぞれに癖があり、得手不得手を持っています。腕がいいものもいれば、悪いのもいますし、飲み込みが早いものもいれば、遅いのもいます。実にさまざまです。それが人というものです。


・人をどうやって育て、使うかと言ったら、やはり木と同じように癖を読み、得手だけでなく、不得手な部分も上手に生かしてやる、ということだろうと思います。例えば、飲み込みが悪く、なかなか要領よく仕事ができない人がいるなら、時間をかかってもいいから、自分で納得できるまで、引っかかっていることにとことんチャレンジさせることです。こういう人は、一度、納得すれば、きちんとそれを自分のものにして、いい仕事をするようになるものです。


・私どものような職人の世界では、飲み込みのいい要領しより、飲み込みが悪く、「なぜできないんだろう」「なぜぁぁするんだろう」といつも自問し、答えを求め続けている愚直なタイプのほうが、時間がかかっても、最終的には大成するケースが多いようです。飲み込みがよくないからこそ、納得いく答えを探し求める。そうすることで「なぜだ?」の深掘りができ、ほんとうの意味で理解が深まるのだと思います。いい面だけでなしに、短所や欠点も生かして初めて、その人の潜在能力は十全に発揮されるのではないでしょうか。木も人も、癖があるからこそ生きるのです。


・掃き掃除やカンナ屑などの片付けなどの雑用も、弟子にとっては大事な仕事です。整理整頓は、モノづくりの現場の「品質管理」や「安全管理」をはかるうえでとても重要なことです。「乱雑」や「不良」や「事故」のもとです。さらに言えば、そうした雑用は仕事を教えてもらう棟梁や先輩大工への感謝であったり、仕事をいただいているお施主さんへのお礼の気持ちであったり、そうした思いを身を以て示すことでもあります。


イチロー選手が試合に備えて道具の手入れを怠らないように、私ども大工は毎日の現場に備えて「切れる刃物」を用意しなければなりません。ひたすら研いでノミやカンナを自分の手のようにして、思いのままに操られるようにしないといけない。やり終えた仕事は、紛れもなくその人の技量、腕前を示しています。だから「研ぎ」に魂を込める。そうすることでノミの一突き、カンナの一削りを大事にするようになる。腕も上がる。研ぎは嘘をつきません。


・弟子は一年目は穴掘りやホゾ付けでノミやノコギリは使いますが、カンナはまた使わせてもらえません。それでも毎晩、研ぎの練習はしていますし、仕事場に行けば、毎日、師匠や先輩大工がかっこよくカンナ削りをしているのを見ています。研いだカンナの切れ味を試してみたくなるのは当然で、「早くあんなふうに削ってみたいなあ」とうずうずしてきます。見習い修行の肝は、まさにこの「うずうず」にあります。やれと言われてやるのではなく、どれだけ自分自身でやる気を引き出せるか。それがすべてです。


・西岡棟梁はよく、「木組みは人組み」ということを言っていました。木には癖がある。人にも癖がある。癖のある木を組み合わせて立派な社寺を建立するには、癖のある職人たちを適材適所に配置し、心を一つにしないといけない。そういう意味です。


「一芸を極めれば、多芸もわかる」西岡棟梁に言われ、いまも心に鮮やかに残ってる言葉のひとつです。大工だろうが左官だろうが、その道を極めれば、お茶であれ、お能であれ、お琴であれ、その真髄が見えるようになる。「一芸を極めれば、他芸の神髄から何かを学び取り、自分をさらに高めることができる。だから自分の道を究めるべく、精進しなさい」ということでしょう。


ん〜!やっぱり一芸に秀でた人は説得力が違うね〜。「クセをどう直すか?」ではなく「クセをどう生かすか」。木は生きているんだね。もっと大事にしなきゃ!おススメよ!(^^♪