「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜打撃の神様・川上哲治の人生…『父の背番号は16だった』

私の世代では、背番号77、読売ジャイアンツの黄金時代V9の名監督。そして背番号16、打撃の神様といわれた川上哲治氏。(^。^)
成績を見るとすごいねえ!(゜o゜)通算打率.313、2351安打、1319打点、181本塁打史上初の通算2000本安打。MVP3回、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回。背番号16は、もちろん永久欠番。…でも巨人の星では星飛雄馬がつけてたよね。(^^ゞ

著者は、長男で作家の川上 貴光(よしてる)氏。なぜ、打撃の神様と呼ばれたのか?なぜ前人未到の9連覇を達成したのか?実は、単に王、長嶋という偉大な選手がいたから勝ち続けたんじゃない!!!そして最後の1974年の勇退の影には何があったのか?息子が語る川上哲治氏の波乱万丈の人生と秘蔵のドラマがここに!。そのエッセンスを紹介しよう。


・今では簡単に手に入るような技術書も当時はほとんどなかったし、チームにバッティングコーチがいる時代ではなかった。先輩は誰も教えてくれない。プロなら技術は教わるものではなく、人のやり方を見て自分で盗むものだという空気が支配していた。父に限らず、この頃の選手は自分で工夫する以外に上達の道はなかったのである。


・同僚の300勝投手・別所毅彦はいう。「川上さんは不器用な人だったけど、大変な努力家だった。遠征先に夜中に二階でドンドン音がするんで見に行ったら、川上さんが部屋の真ん中で裸になって一人でバットスイングをしていた。どこに遠征にいってもそんな調子だった」


青田昇はいう。「カワさんはね、どんなに酒飲んで遅く帰ってきても部屋でバットを振る人だった。昼の試合が終わって旅館に返ってくると、すぐに風呂に入って麻雀台に飛びつくというのが普通だった。ところが川上さんは帰ってきて、まずバットスイングをするんだ。ヒットが出らんかったときなんか特にそうだった。若手連中は川上さんより先に風呂に飛び込むわけにはいかん。それで結局、川上さんにつられてみんなでバットスイングがはじまってしまう。そんなことがよくあったよ」


・昭和25年、ボールがまるで「どうぞ打って下さい」と言わんばかりに、一瞬止まるように見えたのである。止まったと感じたときには、すでにバットから快音が発せられている。「球が止まるという感じは、結局バッティングのタイミングが自分のものになったということだった。タイミングというのは、つまり間のことだ」と父は言った。


・父には、俊足でならした柴田勲松本匡史につぐ、チーム歴代三位の220盗塁という記録は高田繁を20、長島茂雄を30上回る。あまり知られていないが、父のとっておきの自慢のタネである。


・父はたとえ釣りやゴルフという遊びであっても、適当に息を抜くということをけっしてしなかった。釣りに行けば人より一匹でも多く釣らないと機嫌が悪いという生来の負けず嫌いのところもあったが。それ以上になにごとも徹底しないと気がすまないのである。


・監督になったときドジャースの戦法』という本に衝撃を受けた。今では当たり前のプレーとしてやっている、打者が一塁ゴロを打ってピッチャーが一塁カバーに入るというプレーでさえも、どの球団もやっていなかったのである。父は自分が一番最初にやってみようと思ったのである。 バント処理、ダブルプレー、盗塁、牽制な、さまざまな場面を想定して実践的に行われた。


・「プロ選手としての自覚を持ち、1年間を通じて訓練をつづけなくてはならない知っていてもそのプレーが出来なくては知っていることにならない。まず自分で研究することが大切だ。野球を深く掘り下げて探求し、自分の独創的なものになるように、自分の特徴というものをつくれ。勝負は執念を持たなければならない。そしてお互いに信頼して総力を結集する。相互の信頼がなにより大切であり、これが勝ちにつながっているのである」


ジャイアンツの監督になったとき、父は「雨なら練習なし」というそれまでプロ野球では当然のこととされていた慣習を変えた。監督に就任した昭和36年「猛練習」の方針を打ち出した父は雨でグラウンドが使えなくなると、多摩川の合宿所の食堂にネットを張り、そこでバッティングをやらせたり、近くの鉄橋の下に投手陣を引っ張りだしてピッチングをさせたりした。その当時のジャイアンツは雨天練習場を持っていなかった、だから時々マネジャーに学校や企業の体育館を手配させてそこでじっくり練習をやったこともあった。


・父は、点を取るために送りバントスクイズなどの作戦を多用した。ノーアウト二塁のランナーを送りバントで三塁に進める作戦は高校野球」「どろくさい百姓野球」「石橋を叩いて渡る」などと酷評された。しかし父は何を言われようと自分の考えを変えなかった。勝つためになりふりを構っていられなかったのである。
「百獣の王といわれるライオンは、たとえウサギを狙うときでも、風下から慎重にしのびよって、走るときは全力で追いかけるというじゃないか」


・父の初優勝は監督一年目の1961年。41歳だった。チーム打率はリーグ最低の.227で、20勝投手もいなかった。ベロビーチ仕込みのドジャース戦法を生かし、全員休みなしの猛練習の中から掴みとったペナントであった。


へえ〜!( ..)φメモメモ 現代の日本の野球の基礎を作ったのは川上さんだったんだね!野球ファン必読の本!オススメよ。(^^♪