「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜昭和の爆笑王の素顔…『父の背中』(二代 林家三平)

父の背中―拙者のハンセイ

父の背中―拙者のハンセイ

物心ついた頃から最も好きな芸人は、昭和の爆笑王こと林家三平だった。(^◇^)本当に面白かった。腹を抱えて笑った!時代背景もあったのだろうけど、今でも私の中では彼を越える芸人はいない。だからこの本が出たときはすぐ買っちゃったよ〜!(^^♪


BOOK〜初の公式ネタ集!…『昭和の爆笑王 ご存じ 林家三平 傑作集』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20081221


さて、三平の次男・林家いっ平が三平を継ぐということで、三平の名前が復活するということで本当に嬉しかった!そしていっ平を見て、オドロいた!兄の林家正蔵よりも三平に似ているのだ!!!
襲名披露をテレビで見て、他人事とは思えず思わずウルウル…。(T_T)

この本はいっ平が、三平として生きていく決意表明でもあるのだ!等身大の初代三平と息子ならではのエピソードが満載!そのツボを紹介しよう。


・物心ついてから、目に焼き付いてる父の姿といえば、なんと言っても鏡に向かうその後ろ姿、背中だった。洗面所、書斎、玄関…どこにいても鏡が目に入ると父はいつも吸い寄せられるようにしてその前に立った。
「どうもすいません…ええ、ああ、もう大変なんですから…え〜あ〜う〜、もう大変なんですから」軽く握ったこぶしを額に当て、礼の困ったような笑みを浮かべ、九官鳥のように何度も繰り返す。実際ウチで飼っていた九官鳥が教えもしないのに、父のこのセリフを覚えてしまったぐらいだ。


・父は一般の社会で特別扱いされることをひどく嫌った。恐れているフシすらあった。だから必要以上に、と思えるくらい父は誰に対しても腰が低く、常に謙っていた。口ぐせは「芸人は偉ぶったら終わりだ」という言葉だった。遊園地で乗り物の列に並ぼうとしても、「特別扱いはダメです。並びます」
飛行機を利用する時も「僕はそんな偉い人間じゃありません。エコノミーの芸人ですから」


自分が有名人であることを利用して特別扱いを受けたら、周囲のお客さんの中にはきっと嫌な思いをする人がいる、そこには寄席に足を運んでくださるお客様もいるかもしれない。小さなことだけど、そういう心がけが大事なんだと、父は僕に教えてくれた。


・高座に上がる前の父の手はいつも異常なくらいに冷たく、汗ばんでいた。自分が噺家となって高座に上がるようになってわかった。父はものすごく緊張していたのだ。お客様に精一杯上の芸をお見せしようという気持ちが、情熱がそうされているのだ、その緊張を失った芸人はダメだというのだ。父の手は僕にそんなことを教えてくれたような気がする。


・父と自転車で走っている途中、思いきり転んでしまったとき、「いいか、泰助。男っていうのはな、どんなにキツいことがあってもひとりで立ち上がって進まなきゃいけないときがあるんだぞ」脳溢血の後遺症で右半身マヒに言語障害という噺家にとっては絶望的ともいえる状況から再起をかけ、言葉では言い尽くせないくらいの苦労と努力でそれを克服した父の言葉だけにその一言には重みがあった。


・わが家の不文律は、父が出ているテレビを見るときは全員正座。帰宅の際のクラクションが鳴ると、家族全員で玄関で正座で「お帰りなさい」 「ただいま帰りました」これが毎日の決まりだった


・父がいるときは、九時のニュースは家族そろってみる。おまえはこの事件のことをどう思うかと、子どもたちに意見を聞いてゆき、最後に父が自分の意見を述べるというのがしきたりのようになっていた。ネタ作りのためか、朝毎読はもちろん産経、日経からスポーツ誌までほとんど目を通していたので、本当に物知りだった。


・父の座右の銘「笑わせる腕になるまで泣く修行」いま、こうして読み返すと本当に奥の深い言葉だと思う。


「橋」と「噺」はとても似ている。「言葉」と「言葉」を、「時代」と「時代」を、あるいは「言葉」と「人」を掛け渡すという意味においても噺と橋は共通する部分が多いと思う。


単なるタレント本ではないな。深いよ。オススメ!(^◇^)