「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「21世紀落語史 すべては志ん朝の死から始まった」(広瀬和生)

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小学校のクラブ活動で落語をやり、「疝気の虫」「ろくろっ首」をやって、中学では寿限無をやった。その頃、初代林家三平師匠が大好き。「笑点」では歌丸師匠と三遊亭小圓遊師匠とのやりとりにハマった。もちろん司会は三波伸介ねっ!(・∀・)

 

というように落語が好き。でもそれほど寄席には行っていないなあ。行きたいなあ……って思ったときに出会ったのがこの本。

 

「若者はなぜ渋谷の落語会にハマるのか? 「落語ブーム」はどう生まれたのか? 志ん朝の死」で幕を開けた21世紀の落語界――、その「激動の時代」の記録を後世に伝えるべく、現在に至るまでの出来事を、落語ファンとして客席に足を運び続けた立場から振り返り綴る。ほぼ毎日落語を聴く「BURRN!」編集長だから語れた「落語盛衰記」。今聴くべき演者がわかる、「にわかファン」にも最適な一冊!そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・談志をして「あいつは天下を取る」と言わしめた古今亭右朝(古今亭志ん八)志ん朝より5ヶ月速くなくなった弟子。52歳。
 
・談志、志ん朝逝去について「いいときに死んだよ。良かったよ。現在の演芸で金を払っても見たいというのは志ん朝だけ。現在の落語界で最高の芸を見せた見事な人生だったと言ってやりた。いろいろと想い出を感謝。でもまさか志ん朝が死ぬとは……いや人間、いつかは死ぬものなのだ」
 
・21世紀初頭に世間が落語というエンターテイメントを「再発見」したとき、その頂点には「全盛期」の談志が君臨し、落語の「凄さ」を見せつけた立川志の輔春風亭昇太に代表される「エンターテイメント性の高い落語」に魅力を感じて入門してきた人々は、高座に登場しただけで空気が変わる立川談志という得意な演者の存在を知り、「落語を超えた落語」の世界を垣間見たとき、落語という芸能の奥深さを実感したはずだ。
 
談志は、桂文楽三遊亭圓生柳家小さん古今亭志ん朝といった「わかりやすい名人」の系譜にはない。むしろ異端とさえいえる。その「反逆児」が、あの落語ブームの頂点に君臨したことは(本人が望むと望まざるとにかかわらず)落語というジャンルの可能性を大きく広げた。一昔前の「名人芸を極める」というイメージから大きく逸脱した談志の活躍こそが、20世紀とは一線を画する「21世紀の落語界」の空気感を生み出した。かつて落語が「能のようになる」ことを阻止した談志は、「全盛期」の活躍で落語を21世紀の芸能」として押し進めたのである。
 

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立川談春「誰が志ん朝師匠が63歳でいなくなると思った?本当に惚れた、自分がプロになるきっかけを作ってくれたような芸人の気概をね…引き継ぐ覚悟を真剣に持つか持たないかを、20周年を機に考えようと」落語を独自に発展進化させている人は大勢いるけお、残す・伝える・途切れさせない、ということに、私を含めて本気の噺家って一体何人いるんだろうね」
 
2005年に本格化した「落語ブーム」。それは「落語というエンターテイメントの再発見」だった。どうして2005年の落語界に「面白い落語家が大勢いた」のか。それは2001年の「志ん朝の死」があったからだ、と僕は思っている。志ん朝の余りにも早すぎた死は、残された中堅以下の演者たちに大いなる喪失感を与えたが、やがてそれは危機意識の芽生えに繋がった。志ん朝という「究極の理想形」を失ったということは、特に落語協会の若手にとっては「目標を失った」と同時に「重石が取れた」ということでもある。それぞれが「自分なりの落語」を「自分で創る」しかない。「自分の落語をやっていい」ということ。つまり彼らは志ん朝の呪縛」から解放されたのだ。
 
 
・「SWA(創作話芸アソシエーション)」春風亭昇太三遊亭白鳥柳家喬太郎林家彦いち
 
林家こぶ平の九代目正蔵襲名」「ずんずん調査の落語家順位」「立川談春『包丁』」「柳亭市馬「普段の袴」「芋俵」「雛鍔」「高砂や」」「柳家喜多八」「橘家文左衛門」「立川談笑(談生)」春風亭一之輔「プロフェッショナル 仕事の流儀」「立川こしら三遊亭兼好柳亭こみち、など。

 

寄席に行きたくなりましたー!いろんな師匠の噺、聞きたーい!オススメです。(・∀・)

 

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