一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

「昭和の爆笑王 三遊亭歌笑」(岡本和明)

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昭和の爆笑王といえば初代 林家三平ワタシは大好きで、大好きで、三平が亡くなったときは、本当にショックだった…悲しかった…今でもはっきり覚えている。

 

さて、この本、三平師匠が最も影響を受けた「爆笑王」三遊亭歌笑なのだ!ワタシはそれを知らなかった。それも当然っ!わずか5年、生まれ持っての強度の斜視と弱視の「珍顔」で戦中〜戦後の落語界を席巻。31歳で進駐軍ジープに轢かれて即死。初めて描かれるその全生涯。そのエッセンスを紹介しよう。

 
・1950(昭和25)年5月31日、新聞各紙に一人の咄家の死亡記事が乗ったそれは戦後の落語会が生んだ最大のスターの死を知らせるものだった。
 
三遊亭歌笑が交通事故ののため死亡したー30日午後7時45分ご中央区銀座6-2先で道路を横断しようとした三遊亭歌笑こと高水治男さんはジープにひかれ菊地病院に収容したが左前頭部強打で既にこときれていた。31歳。
 
この日歌笑は中華料理幸楽で某雑誌主催の大宅壮一氏との対談会に出ての帰りにこの奇禍にあったのものだが、右目にホシがあり、これが盲点となり車に気付かなかったらしい。歌笑は金馬の愛弟子で得意な顔と話術の笑いが人気を呼んでいた都下西多摩郡五日市の製糸工場長の息で、十年前までは本物の落語は一度もきかず、もっぱらラジオ、レコードで勉強したという変り種。一昨年真打となり先輩からは異端者扱いその道の通からはイヤがられていたが、人気の点では戦後落語界のナンバーワンだった。
 

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歌笑の死は全国津々浦々の井戸端会議にまで語られた。それを知った時、まさかと思い、続いてへえッと驚いて、それからみんなが笑った。歌笑が笑わせたのである。そしてその後みんなが可哀そうがった。眼の悪いという肉体的な障害が、彼に家を作らせ電話をひかせて歌笑流の幸福を得させ、眼の悪いことがまた彼を殺した歌笑純情詩集はもうすぐあきられそうなギリギリの限界まできて絶版となった。彼はその幸福の限界で昇天した。戦後派にふさわしい見事な死である
 

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5年間の輝きである。三遊亭歌笑は、敗戦後疲弊し、荒廃した日本人に笑いを提供するために突如現れた咄家だった。そして、日本が経済的に立ち直る頃に、その役目を終えたかように、一瞬にして我々の前から姿を消したのである。そんな歌笑の生涯をひと言でいえば、疎外するものとの闘いの生涯」であった。うまれついての顔の為に、幼い頃から疎外され、友人と呼べる者を作ることができずに、咄家になってからも、多くの先輩から蔑みの目で見られるのである、そして、歌笑の人気が高まると、そこに嫉妬が加わることになる。しかし、歌笑がそれに対し、露骨に反発することはなかった。否、彼の居る落語の世界がそれを許さなかったのである。歌笑は耐えるしかなかった。そして、心の中に全ての怒りを押し込め、『純情詩集』『論文集』『名作集』等を作り続け、我々に笑いを提供し続けたのである。
 
「何とかこの境遇から抜け出せないだろうか。でも、この顔がなあ……。もう少し人並みだったら……」ほんの一瞬、咄家になろうか…」という思いが脳裏を過った。俺の顔をみんな変だといって笑うけど、だったらそれを武器にすりゃいい。第一、咄家は、笑われるのが商売。これ程俺に向いている仕事はない……」治男の心の中で「咄家になろうか…」という曖昧な思いが、次第に咄家になるという強い物に変わっていた。
 
ひょんなことから会うことになった男の顔を金語楼は何も言わずに見続けていた。確かに弟子達が言ったように滅多に見ることのできない顔だった。「成程な……この手の顔をした人間は滅多にいながい、大変な人気者になるか、全く駄目なままに終わるかどちらかだ、中途半端は奴はいない」と思ったが治男がどちらなのか金語楼にも判断がつきかねた。しかし、金語楼は大変な拾い物をしたような気がして、治男を弟子にしてもいいと思った。だが、それは咄家としての弟子ではなく、役者としての弟子だった。
 
・1947(昭和22)年、一人の青年が東宝名人会に入って来た。父親は七代目林家正蔵。初め甘蔵を名乗ったが、すぐに林家三平と改名した。三平が治男と接したのは三年という短い間だったが、治男が三平に及ぼした影響は大きく、後年の三平の芸の原型はほとんどが治男が作ったものだった。治男に心酔していた三平は或る日、治男に噺を習いたいと言ったが、治男は「三平君。僕の噺は人に教えられる噺じゃない。でも噺の作り方、講座の構成は見ていて分かる筈だから、それを見て自分なりのものを作ればいい」と、三平に自分の芸を真似ることを許したのである。
 
 
真打ち昇進を契機に高まった治男の人気は爆発的なものになっていった。1949(昭和24)年の治男の年収は80万円寄席関係者では断然の一位で、俳優の上原謙の430万円、阪東妻三郎の360万円には及ばないものの、辰巳柳太郎の50万円や当時絶大な人気を誇ったプロ野球大下弘の46万円を遥かに凌いでいるから、治男の人気が如何に凄いものだったか分かる。ちなみに師匠の金馬の年収は35万円だった。
 
・落語家が、歌笑をさして漫談屋だとか、邪道だというのは滑稽千万で、落語の邪道なんてものがあるものか。落語そのものが邪道なのだ昭和30年代になって林家三平が一躍スターとして躍り出ることになるが、三平の芸は歌笑の物真似ともいえるものだった。三平の人気はすごく、二つ目でトリをとる程だった。歌笑の芸は生き続けたのである。歌笑→痴楽→三平と続いた型破りな高座は多くの人間に支持されるのであるだが、残念なことに三平に続く人間は現れずにいる。今、私が願っているのは、第二の歌笑、三平の出現である落語にほとんど興味のない女性や子供でもその咄家を見たい為に寄席に足を運ばせるような咄家の出現なのである。「百年に一度」と言われる経済危機の中、殺伐としたニュースばかりの現在、本書を書いていて切にそれを願うのである。

 

スゴいなあ……たくましいなあ……強いなあ……顔の障害ってスゴいよねえ……。「笑いの真髄は涙にある」ことを知りました。お笑いファン必読っ!超オススメです!♪

 

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