「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「芸人 その世界」(永六輔)

最近はずっとお笑いブームというか芸人ブームだよね。テレビで見ない日はないよね。

私が好きだった芸人は、なんといっても、昭和の爆笑王・初代林家三平だね。

さて、この本。著者、永六輔氏の「仕事の原点」となった芸人の言行録。その代表的な言葉を紹介しよう。


五代目菊五郎、夫婦げんかの最中に駄目をだした。「胸ぐらはこうとって、足の形はこうで」おかみさんが、「私は喧嘩をしてるんです。芝居をしてるんじゃありません」といっても、「頼むから言う通りにしてくれ。でないとさまにならねぇ」


三代目柳家小さん。葉書をポストにいれに行く途中、魚屋で酒の切身を買い、その切身の方をポストにいれて帰宅。葉書を焼こうとして……「しまった!」


・ロンドンのスラムに生まれ、アメリカで成功して、再びロンドンに帰ったチャップリンのところにきたファンレターは三日間で七万三千通になった。その三分の一以上が金の無心の手紙。そして彼は700人以上の名も聞いたことのない親戚が増え、あまつさえ9人も母親が現れたのを知る。


渥美清とニューヨークにいた時、「ニューヨークに江戸裁判所があるそうだ」という情報を持って来た。国宝的美術品の国外流出の話はよく聞くが建築物までアメリカにあるのかと早速二人で出かけた。「江戸裁判所」は「エド・サリバン・ショー」だった。


朝寝坊夢之助という前座の落語家。家族に芸人になることを反対されて廃業した。これが明治32年、後の永井荷風である。


・小学生がただ一人、中国の青島から東京へやって来た。背負ったランドセルの背中に、東京での宛名が書いてあり、彼は寝る間もはずさなかった。生きていた小包、中村八大である。


鰻丼を発明したのは江戸時代の興行師大久保今助。芝居を見ながら鰻を喰うのに、その鰻がさめないように飯の上に載せて運ばせたのが始まりだという。


NHK当時、浅沼博アナウンサーは、マグダラのマリア」を「マタグラのマリア」と読んで叱られた。僕も「神出鬼没」を「シンシツボッキ(寝室勃起)」と読んだことがある。


柳家金語楼は愛称「キンサマ」で通っている。「キンサマの毛が、また、うすくなった」「キンサマがブラブラしてた」「キンサマがどこかへいっちゃった」そんな時、キンタマに聞こえてビックリする。


鈴々舎馬風が刑務所の慰問に出かけて囚人の前での第一声「エー、満場の悪人諸君!」


古今亭志ん生曰く、「貧乏なんてするもんじゃありません。貧乏は味わうものですな」


三木のり平の本名は田沼則子。父親に漢学の素養があって「則子」とつけた。孔子孟子にあやかっているのである。この父親には別に妻子がいた。


・難解かつ飛躍した絵物語を仏教知識を踏まえた上で、面白く語って聞かせた説教僧の話術が、講談、落語、浪曲に脈打っている。高座とか前座とを寄席の言葉だと思ったら間違いで本来は仏教用語なのである。


明治44年帝国劇場出来る。日本で初めて「劇場」と名がついた建物である。この時に出演料がアラビア数字で書かれたのだが、それが読めない歌舞伎役者が多かったという。


「自分と同じくらいの芸と感じる時は、自分と段違いの巧者である」(徳川夢声


果たして、平成の芸人たちの言行録を集めたらどんなものができるんだろうねえ。オススメです。(・∀・)!