「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「昭和の藝人 千夜一夜」(矢野誠一)

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小学生のころ、大好きだったの落語家が、初代林家三平師匠。面白かったよね〜!!!あれが爆笑というんだろうなあ。亡くなったときが本当にショックだったのを覚えている。

 

さて、この本。表記は、「芸能人」ではない、「藝人」なのだ。よき昭和の時代、圓生志ん朝から古川ロッパ越路吹雪まで。昭和という時代に、“藝”に人生を喰われて生きた藝人88人のほろりとするエピソード集」中でも三平師匠の項目を紹介しよう。

 

藝能人という言葉はむかしなかった。「藝人」を「遊藝を職業とする人」の語義説明とまったく同様の意味で用いているのだが、好んで、そして時にはかなり意識的にこの呼称を使うのは、同義語である藝能人という胡散臭い言葉が嫌いで、出来ることなら口にしたり、文字にしたくないからである。
 
・藝人が藝能人に昇格したかのような錯覚を生じて、それまであった藝人に対する差別意識が多少ともやわらいだのは、やはり確かであったろう。だが、そのことによって自ら閉鎖社会を形成して、それ故に発輝されていた、ある輝きを失わせてしまったのも、これまた確かなことなのである。いまや往時となった昭和は、藝人が藝人らしく生きることの許された、最後の時代ではなかったか。
 
 
【初代林家三平古典落語を超えたナンセンスとマンネリズム
 
初代散兵の父七代目林家正蔵は、人気者として一世を風靡したが、仲間うちの評判はかならずしもよくはなかった。俗に言う懐の切れない藝人」だったようだ。楽屋で耳にしたであろう父の評判が、三平をして祝儀不祝儀のつきあいに必要以上に暑い藝人に仕立てたのだと、長老の落語家からきいたことがある。タクシーの運転手さっき三平さんを乗せたんですよ。いやあ、ちっともいばらないで、よく気のつく方でした」と釣銭とは別に千円のチップをはずんでくれたという。
 
お歳暮に新巻鮭を贈られた永六輔が、礼状を出すより先に放送局の廊下で顔をあわせたので、礼を述べたのだが三平の返事は、「あれ、先生のところへ行っちゃいましたか……」
 
1967年の正月東宝演芸場で紋付羽織袴姿のまんまの林家三平、エレベーターの前で出くわした。「おめでとうございます。ことしもよろしく。どうもすいません」と大声で挨拶しながら、お年玉と手拭を手渡された。お年玉には手の切れるような五百円札がはいっていた。いまや孫にあげる立場になった私の頂戴した最後のお年玉である。まったく余計なことをつけくわえるなら、落語協会会長三遊亭圓生のお年玉が二百円ときいた時代のはなしである。
 
識者の多くは「あんなもの落語ではない」と一刀両断にしてみせた。だが、古典落語に見る文学性も、人間に対する深い洞察もうかがえない、ただナンセンスでマンネリズムにつきる「あんなもの」が、とてつもなくおかしくて、寄席の客を喜ばせた点で、なみの古典落語をこえてみせたことは、もっともっと高く評価されてよかった。そして、あの即物的としか言いようのない笑いを獲得するためにはらった平のサービス精神と、ものを学ぼうとする真摯な姿勢は、これまたなみの落語家をこえていた。
 
 
古今亭志ん生」「榎本健一」「三代目三遊亭歌笑」「藤山寛美水原弘」「伊藤一葉」「渥美清は特に馴染みが深い。
 
 
「伊藤一葉」よかったなあ〜!懐かしいなあ!オススメです。(・∀・)

 

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