「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『本当に江戸の浪人は傘張りの内職をしていたのか?』

水戸黄門の笑い話。黄門様が、「オミヨさん。これからは佐助さんと手に手を取って仕事に励みなさいよ」と話したあとに、助さんが、「オミヨさん、ファイト!!!」 ……(ーー;)

また、うっかり八兵衛が、茶店でだんごか何かをおまけしてもらった時に

「ご隠居、この店はサービスがいいですね」……(ーー;) 

当時の鎖国の日本にはまだ外来語は入っていないはずじゃあ…。(・。・)

さて、この本の著者、山田順子氏は、時代劇や歴史クイズなどの時代考証を専門とする放送作家。江戸時代は士農工商と固定された社会で、職業選択の自由がなかったと思われがちだ。しかし公家や大名以外は、本人の努力次第でかなり自由に職業が選択できた。また資格試験などはなかったので、実力と資金さえあれば今日からでも開業できたのだ。そんな江戸時代の職業について分かりやすく解説した本。そのエッセンスを紹介しよう。


・武士という身分を金で買う「売録(ばいろく)」というシステムがあった。例えば江戸中期の仙台藩では千両(一億円)出せば、農民から大番組という最下級の武士になれた。盛岡藩では浪人(武士を失業してしまったもの)から禄高十石の与力になるには七十両(七百万円)。江戸後期になると武士の家系でない武士が増えていく。


「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)」という職業は、将軍の尿筒(しとづつ)=携帯用尿瓶(しびん)を懐にいれて付き従うことを仕事をしている人で鎌倉時代から江戸時代までひとつの家系が六百年間世襲していた。


江戸の町では門限が午後八時と決められていた。それは治安のために各町内の出入り口に木戸を設置して木戸番が朝の明六つ(午前六時)に戸を開け、夜の五つ(午後八時)に一斉に戸をしめたため。木戸を閉めたあとは、医師や産婆など緊急を要するもの意外は通行を許さず、もしどうしても通りたい者がいたら、素性や身分の確認が必要だった。


江戸時代の若者の憧れの就職先は公衆浴場=湯屋(銭湯)だった。今はなくなってしまった職業「三助」は男湯にも女湯にもいた。便利な蛇口などないので、桶に湯を汲んで客前に並べたり、客の背中を糠袋(ぬかぶくろ)=石鹸の代わり、や垢すりえこすり、湯をかけて流したあとは軽くマッサージをする仕事で、もちろん女性客にも同じサービスをするので、現代のエステに近いサービスで湯銭とは別にチップをもらうことも多かった。しかし三助になるには、修行として町中を歩いて「木拾い」という木屑や廃材を拾い集める仕事や「釜焚き」=一日中釜のそばで過ごしたり、十年以上かかって、ようやく三助に昇進できたのだ。


江戸の女性が就く職業のトップは下女=台所仕事や掃除などをやる下働きの女性。なぜなら何の技術も知識もなく、文字が読めない女性でも簡単になれたから。原則賄い付きの住み込みで、一年契約が多かった。


・時代劇の内職の定番が傘張り浪人。これは演出上の問題で、傘の骨が大きく写ることによって、画面上で何をしているのかがすぐ分かるために設定しやすいのだ。しかし、本当に傘張りの内職をしていたのか!?
江戸前期、傘は高級品で値段も一本二朱(一万二千五百円)と庶民には高嶺の花。そこで古くなって紙が破けた傘を直して、新しい油紙を張った「張替傘」が二百文(五千円)でようやく庶民が買えるようになった。この内職の仕事は熟練を要する仕事で、特に江戸の青山百人町にあった甲賀組の組屋敷には傘張りの熟練者が多かったという。忍者は手先が器用だったのかも!?


その他、「十九文見世」という現代の百円ショップ、上菓子屋と駄菓子屋、江戸時代の焼き芋ブーム、吉原の過酷な労働条件などなど。時代は変われど基本的なものは変わっていないのかも!?温故知新だね。おススメよ!(^◇^)