「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「江戸の気分」(堀井憲一郎)

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今度生まれ変わるとしたら、間違いなく「エロ時代」が、いやいや「江戸時代」がいいっ!!(・∀・)イイネ!! 狭い長屋に住んでみたいし、3時間しか働かないで、歩いてお伊勢参りしたいなあ!


病いとは戦わない、顔が信用のもと、神様はすぐそこにいる、米さえ食べられれば……大切なことはみんな落語が教えてくれた!生き生きと語り継がれる江戸庶民の暮らしと知恵に学ぶ」そのエッセンスを紹介しよう。
 
落語を通して、江戸の気分をリアルに想像してみようという新書である。落語は、口承芸能なので、江戸のころの空気がところどころに残っている。もともと文政天保のころの若者がやっていた馬鹿は、いまもきちんと可笑しいから楽しもう」という芸能である。
 
江戸の昔、病いの数は四百四あったらしい。四百四病。数えきっているところが素敵だ。世界を把握している感じがする。いやまあ、把握してるだけで、何も解決はできていないとおもうけどね。落語では「病い」を「引き受ける」という。そういうセリフをたびたび聞く。病気になる、ということだ。病いは自分の内にあると考えているわけで、そのへんは、江戸の人のほうが長けている。近代人は、病気をすべて「外のもの」として捉えるのがいけないやね。
 
落語には貧乏長屋が出てくる。貧乏で賑やかに暮らしている。いつも笑いのめしで行きている。落語を聞いてると、貧乏でも笑える、と思ってしまう。三月裏は、家の形が菱餅みたいにひしゃげている裏長屋。八月裏は年がら年中、裸で暮らしている裏長屋。長屋ぜんたいえ釜が一つしかない釜一つ裏、長屋40軒のぷち38軒は冬の寒いおりに戸を叩き割って燃やしてしまっているのが戸なし長屋。かつてはそういう長屋が実在して、すさまじい生活をしている人たちが大勢いた。カタカナでいえばスラム街。都市部には、かならずスラム街がある。大坂にもあった。
 
金銭に対する感覚が根本的に違う。金がなくても生きていける、それが江戸の理想の世の中である。この理念は、昭和の中ごろまではまだ残っていた。それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。何とか押し潰しきったとおもう。それがいいことか悪いことかは判断がつかない。社会全体が「金」でものごとを測ると決めたのだから。
 
飯を炊くのは日に一度。江戸の朝炊き、上方の昼炊き。朝は、あたたかいご飯と漬物。昼は、あたたかいご飯と漬物におかず一品。晩は、冷や飯に、漬物。これが日常食である。落語の中でよく茶漬けを食べてるシーンがあるのだが、それは夜のご飯が冷や飯だからだ。のままでは冷たいので、あったかいお湯かお茶をかける。少しはあたたまる。茶漬けはそういう存在だったお漬物にしても、味噌汁にしても、それはあくまで「ご飯をいっぱい食べるための補助食品」にすぎない。昔の日本人は「炊いた米をたくさん食べる」ということが生きていく基本だったのだ
 
「病いと戦う馬鹿はいない」「神様はすぐそこにいる」「キツネタヌキにだまされる」「武士は戒厳令下の軍人だ」「火事も娯楽の江戸の街」「火消しは破壊する」「江戸の花見は馬鹿の祭典だ」「蚊帳(かや)に守られる夏」「棺桶は急ぎ家へ運び込まれる」「死と隣り合わせの貧乏」「無尽というお楽しみ会」「金がなくても生きていける」「米だけ食べて生きる」「京と大坂と江戸と」など。

 

いいねえ。イキだねえ。江戸に生まれたかったなあ。新鮮が気持ちで落語を聞けるなあ。落語ファン、必読。オススメです。(・∀・)

 

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